2008年9月23日火曜日

フィールド三昧

9月15日以降、小貝川、一関、霞ヶ浦(浮島湿原)2連発、学会(福岡)、鹿嶋の谷津田と、フィールド続き。その合間に25日の植物学会での発表の準備をしなければならなかったので、ちょいとハードな1週間だった。

この季節、湿地のフィールドではシロバナサクラタデの花をみることができる。多くの図鑑に「雌雄異株」と書かれているシロバナサクラタデだが、そうではなくて異型花柱性植物ですよ、というのが私の卒論から修士までの研究で示したことの一つだった。このことに学部三年の秋に気づいたのが、この浮島湿原である。大発見をした気分になって色々な先生を訪ねて話した。そのときに一番「面白がってくれた」先生の研究室を卒業研究に選び、そのまま大学院に進み、いったん外部の研究所に就職したもののまた出戻ってその先生の助教をしている。浮島湿原のシロバナサクラタデが無かったら、研究者になっていなかったかも。

今年も浮島のシロバナサクラタデが咲いた。


花被の上に葯が突出しているのが「短花柱型」。花柱は花被の中に隠れているが、長花柱型の花粉が受粉すると種子ができる。


花被の上に柱頭が突出しているのが「長花柱型」。葯は花被の中に隠れている。長花柱型は短花柱型からの花粉が受粉すると種子ができる。

2008年9月6日土曜日

ヨシ原の攪乱

今年の学部生対象の学生実習は、湿地の植物の多様性維持に対する攪乱の重要性、をテーマにしている。

水辺のヨシ原やオギ原は攪乱(植生を破壊する物理的作用)が無い限り種の多様性はそれほど高くない。ヨシやオギは競争力が強く、多くの種の侵入を許さないからだ。しかし攪乱によって植生にギャップ(小規模な裸地)が形成されると、その環境を利用して様々な植物が生育するようになる。
ギャップ形成の重要性は森林でよく強調されるが、水辺のヨシ原でも同様だ。実習では、ギャップを検出して発芽する植物の種子の特性を実験で調べるとともに、野外でギャップとそれ以外の場所の温度や光条件を比較する。

水辺植生のギャップはどのような要因で形成されるのだろうか。
流速の早い河川の上・中流部や大きな波の立つ湖沼の沿岸では、水そのものの営力でギャップが形成される。しかし流速の遅い河川の下流部でも、植生ギャップや、時には広い裸地が形成される。その主要な原因としては次のことが考えられる。
・長期間冠水することによる植物の枯死
・水によって運ばれてきたリターによる攪乱
・哺乳類による攪乱

このうち、哺乳類による攪乱には、人間によるものと人間以外の動物によるものがある。人間は火を使うため、ときに大規模な裸地形成を引き起こす。「湿地の火入れ」は大変に長い歴史をもつ。長江下流域の8000年前の水田遺跡から火入れの証拠が見つかっている。ハンノキ林・ヤナギ林への遷移をくいとめ、イネの優占度を高める管理として火が使われていたと解釈されている。もちろん火入れはそれ以前の時代から行われていただろう。狩猟の際に獲物を捕らえやすくしたり、おいしい果実をつける植物を増やすことにも役立つから、「狩猟・採集」の比重が高かった時代から盛んだったはずだ。
 人間以外の哺乳類にも水辺を生活場所とするものは多い。私がフィールドにしている関東平野のヨシ原にも、かつてはシカがたくさん生息していたようだ。常陸国風土記に次のような記述がある。
 「諺にいわく、葦原の鹿は、その味はひくされるごとく、くらふに山のししに異なり。二つの国の大猟も、絶え尽くすべくもなし。」
 二つの国とは常陸と下総である。この地域の葦原には、たくさん狩猟しても絶えることがないくらい、たくさん生息していたということだろう。シカのような大きな動物は歩き回るだけでもギャップ形成しそうだし、草もたくさん食べる。それから、イノシシのヌタ浴びなんて湿地の攪乱そのものだ。

 人による攪乱は農業・生活様式の変化で大幅に減少した。哺乳類も減った。治水事業が進んだために長期間水につかる場所も減った。これらは、攪乱に依存した特性をもつ植物の多くが絶滅危惧種になった主な原因となっている。

さて、うまく整理して学生さんに伝えられると良いのだが。

2008年8月31日日曜日

洪水の受容

 週末に小貝川河畔で実施を予定していた学生実習を延期した.実習を予定していた河川敷は完全に冠水し,近寄ることさえ危険だったからだ.
 今年は台風は一つも来ないのに,大雨は多い.今回の雨も停滞した前線によるものだが,全国で多くの家屋が浸水した.私が住む我孫子市でも観測史上最大の時間降雨量が記録され,床上浸水が発生した.


増水した桜川

 折しも,東大の沖大幹先生の「治水対策・あふれることを前提に」という意見が28日の朝日新聞のOpinion欄に掲載された直後だった.沖先生の意見は国土交通省による「気候変動に適応した治水対策検討小委員会」の委員という立場から書かれたものだが,表題の通り「あふれること」を想定した社会をつくる必要性が述べられている.沖先生のOpinionの要点:
・ダムと堤防で水害を完全に防ぐというのは現実的ではない.利根川では200年に1度の確率で生じる規模の大洪水もあふれさせないようにすることを目標にした整備計画があるが,実際には30年に1度の確率の中洪水を防ぐ程度の工事さえ,約6割しか完了していない.しかも気候変動により,大洪水が生じる確率は高まることが予測されている.
・今後は水があふれ出ることを前提とした総合的な「治水」に転換する必要がある.その際には,大洪水の際には氾濫を許容する地域の設定の仕方や補償の方法,リスクの高い土地の開発の制限の方法などが課題になる.しかし,人口が減少に転じる今後こそ,この方向に転換するチャンスである.
・洪水のおそれがあるときは仕事を休み,住民総出で治水の作業にあたる社会も考えるべきである.

 とても説得力のある意見だと思う.特に最後の部分.大雨の晩,本来土嚢を積んで町や家を守るべき「お父さん」たちが出勤したきり東京に取り残されているようでは心許ない.
 洪水を受容する社会への転換は,インフラの整備だけでなく,暮らし方・考え方の転換も必要だ.しかし,合理的に考えれば本当に必要な転換だと思う.

ところで,
「洪水をあふれさせる場所」は,利用するなら田んぼが最適だろう.冠水したら収量は減るが,洪水から町を守る役割を果たしたのだから,その分くらいは補償しても納得がいく.さらに,そのような「氾濫原田んぼ」での除草剤や殺虫剤を使わない稲作を推奨したり,休耕する田んぼを選ぶ際に氾濫原の田んぼを優先させるといった工夫をすれば,湿地の生物の保全には絶大な効果があると思う.

 氾濫原の生物にとって本来洪水は移動・分散,漂着のチャンスである.植物の種子も洪水の際に大量に輸送される.しかし,コンクリートで固められた河川ではそのような種子はたどり着くところを失ってしまう.一方,周辺の湿地・田んぼに水があふれたら,そこにたどり着くことができるだろう.
 洪水が生態系に与える影響というと,「攪乱」が強調されることが多いが,少なくとも河川の下流域では生物の輸送・移動・漂着への効果が,とても重要なのだ.

さらに洪水とともに運ばれる泥は豊富な栄養分を含むため,氾濫原の田んぼへの施肥効果をもつという農業へのメリットもあるのではないか.このような評価って行われていないのかな.洪水で冠水した水田をみて,そう思った.


川からの洪水で冠水した水田

「堤防から洪水を一滴ももらすな」とでもいうゼロリスク目標を掲げた事業のため,これまで河川や湖沼の自然は破壊され続けてきた.「川があふれることを前提とした社会づくり」を考えるなら,氾濫原の保全や再生は両立できるはずだ.治水の議論でも,ぜひそのような視点を取り込んでいただきたいものだ.

2008年8月24日日曜日

湿原聖地

金井典美著 湿原祭祀第二版 を読了


稲作を中心に文化を発達させてきた日本では、湿原を聖地として祭り、占い、崇拝の対象としてきた。このことを多くの実例に基づいて解説した本である。いくつか大胆な推論を述べているところもあるが、高層湿原を見たときに神秘性を感じたり、ヨシ原に分け入ったときに豊饒のイメージを感じたり、という個人的な経験から、とても納得のいく内容だった。

本書では、湿原聖地の代表的なタイプとして、次の二つを取り上げている。一つはカヤツリグサ科やイネ科の植物がまばらに生える高層湿原である。東北日本では、里が旱魃の年でも湿潤を保ち、稲に似た植物が生える山頂の高層湿原は、「神の田んぼ」として信仰されてきた。豊凶の占いに用いたと考えられる古銭などが、このような湿原で多く発見されているという。山頂の湿原の地名に「田代」「苗代」と言葉が含まれていることが多いのは、そのような風習の名残らしい。(そういえば田代山の山頂にも綺麗な湿原があったなぁ。)著者は、このような「山上の神の田んぼ」の存在は、雲南省や熱帯アジアで発達した山岳地帯での稲作が日本に伝播したことを反映したものではないかと考察している。

もう一つの代表的な湿原聖地は、ヨシ原である。古事記や日本書紀に書かれているように、日本の国土は、当初は水面に浮かび漂う多くの浮島で、それらはヨシが生えることによって固定されたものという国土観が古代から存在した。この物語を想起させるような湿原、たとえば実際に浮島(floating island)をもつ湿原や、ヨシが水面の中にまとまって島のような景観を形成している場所は、聖地とされることが多かったそうだ。

ヨシ原となるような低地の湿地は、田んぼとして開墾されてきた場所であり、そこの地母神として、湿地そのものや湿地に多い動物であり水の象徴でもあるヘビ、湿地の植物が信仰の対象とされてきた。植物としては、特にスゲ類がよく信仰の対象となり、名前に「菅」を含む神社が多いのはその反映だという。著者はスゲ類が重視されている背景には、スゲが多く生育している場所は稲作に適しているなどの理由があったと考察している。

古代の人々が、稲作に適した場所を探すときに、その場所に生育していた植物種・成立していた植生を手がかりにしたと想定するのは妥当だろう。ヨシは生育適地の幅の広い植物だから、ヨシだけを手がかりにしたのでは、最適な場所を見つけるのは難しかったかもしれない。その点、日本に約250種が分布し、それぞれが微妙な環境の違いに対応して分布しているスゲ類(Carex)は、よい「指標種」となった、と考えるのはスゲ好きの私には楽しい空想だ。たとえば、千葉県北部・茨城県南部を見る限り、オニスゲは谷の水源付近に多い。このようなスゲは安定した湧水源の指標になるように思われる。

湿地を聖地とした習慣の証拠は、弥生・縄文時代まだ遡れるという。本書で特に面白く印象に残ったのは、弥生時代に盛んにつくられた銅鐸についての考察である。銅鐸は祭祀の道具と考えられているが、丘陵の谷に臨んだ水辺の傾斜地、小さな湿原のやや上方、湿生草原の辺縁部から出土することが多いという。ここで著者は、銅鐸を谷間の水田そのものを象形した祭器であるという推測を述べている。つまり、台形をした銅鐸の形は、谷の水源地から里に向かって扇形に広がる水田の形を現しているというのだ。谷津の湧水点にあたる銅鐸の上端部分に、目を象った模様があるものもあるという。この推測の妥当性は専門外の私にはわからないが、これまで特に意識しなかった「銅鐸の形」が自分のフィールドの地形を象っているのかもしれない、と思うだけで、とても楽しくなった。
 湿地のフィールドワークのお守りは、「台形の鈴」がいいかもしれない。

2008年8月21日木曜日

東北水草旅行

3日間かけて,一関市内のため池,下北・小川原湖,津軽・十三湖とその南側の湖沼群をまわってきた.

一関で「農業と一体の自然」を堪能.ため池や田の畔が,湿地の植物の重要なハビタットであることを強く実感.

小川原湖.
 八郎湖は埋め立てられ,霞ヶ浦は水質悪化・堤防建設・水位改変で徹底的に痛めつけられ,日本の「大きな海跡湖の自然」はほとんど失われてしまった.そのような中,小川原湖ではまだ本来の姿を見ることができる.小川原湖があってよかった,とつくづく思った.霞ヶ浦で本格的に自然再生を考えるとき,この湖から学ぶべきことは多いだろう.
 しかし小川原湖でも栄養塩の濃度などは上昇傾向という.水質の悪化と水草の減少は直線的な関係ではなく,負荷の閾値を越えると植物は急速にいなくなる.そうなる前に適切な管理をして,なんとかこの自然を残したいものだ.

砂土路川河口付近の,浮葉植物(アサザ)と沈水植物(セキショウモ,イバラモ,クロモ,ツツイトモなど)が混生する群落.

セキショウモがちょうど開花期.らせん状に伸びる雌花の花柄.

津軽半島には,砂丘列の間に小さな湖沼やため池がたくさんみられる.



極楽浄土ってこんな感じ?行きの電車で湿原と信仰に関する本を読んでいたせいもあって「神秘」に触れたような気持ちになった.

ほんの3日間だったが,「早朝から日没まですぐれた自然を堪能して夜は深夜まで標本作り」という「自然史の時間」を心から楽しんだ.原点に帰った感じ.