2008年6月26日木曜日

高島緑雄「関東中世水田の研究 絵図と地図にみる村落の歴史と景観」 (つづき)

先日読み始めた表記の本から、第5章「中世村落の自然的条件と土地利用:香取社領=谷地田と台地集落の一類型」を読んだ。

千葉県佐原市・小見川町(現在では合併して香取市)の地理的特性と、中世から近世の水田についての論文である。私の故郷に近い場所であるとともに、いまM2のIさんが研究している北浦周辺の土地利用との共通性もあり、興味深く読んだ。

得た知識メモ。
-下総台地の標高は東に行くほど高くなる。台地面と谷との飛行は東部ほど大きい。
→以前から旭市や銚子市の谷津は深くて長い、という印象があったが、台地との比高が影響しているのかも。

-水郷が東京近郊の早場米生産地として有名(だった?)のは、台風時による被害を避けるために極早稲種の稲を育てていたことが関連。

-現在の利根川・常陸川周辺、十六島・新島あたりの「水郷」地帯は長らく一台沼沢地であり、水田の開拓が始まったのは16世紀末ごろからである。

-谷津でも、(谷津の出口が自然堤防で塞がれている場合は特に)河川に近い谷底は悪水がたまりやすく、中世の耕作技術では水田化が困難だった。

-それに対して、谷頭部付近はため池を必要としないほど豊富に地下水が湧出するとともに、傾斜地形のために水の管理もしやすく、また何より河川の氾濫や内水氾濫のような災害が少なく、中世(あるいはそれ以前)から水田耕作が行われてきた。
p.153「水田が分布する谷底面と谷壁の交界線上に、芝地や萱地が帯状に連なっている。これは台地の地下に蓄えられた地下水が滲出する恒常的な湿潤地であり、地下水はこのような湿潤地を媒介として水田に流入する。したがって谷壁直下に用水源をもつ水田にとって、取水と配水の施設はまったく不必要であり、それは古代・中世の水田造成・維持技術、灌漑・排水技術にまさしく適合的といえるのである。」

-谷津の谷頭部付近や谷壁付近が耕作に適していたことは、検地の記録(この地位では1590年代に実施)をみてもわかる。(検地では上田、中田、下田、下々田という等級付けがされている。)

-悪水がたまりやすい谷底では、少なくとも中世には水田化されない場所がかなり点在した。これらのはおそらくヨシ原であり、そのいくつかは、耕作技術が発達した近年になっても、屋根材を供給する部落共有の萱地として残され、特殊な利用慣行が行われてきた。