2013年2月16日土曜日

「科学的に正しい」?

「科学的にみて間違った活動が行われている」と憤る研究者は多い。でもこの批判はおかしい。

たとえば「川の石を磨いて藻類をはがして川をきれいにしましょう」という活動があったとする。確かにご飯を吹き出してしまいそうな話だ。しかし、これを「間違い」とする判断が成り立つのは、たとえば「多様な生き物が暮らす川がよい」といった特定の価値観を前提とした場合に限られる。もし「子どもが足を滑らせにくい川がよい」という価値観を前提とすれば、道理にかなった行為と言えるだろう。科学は、ある行為をすればどのようなことが起こるか予測することに役立つだけで、その行為が「正しい」かどうかにの判断材料はもたらさない。

自然科学の研究者には、自分自身が対象への強い思い入れがあって研究の道に入った人や研究対象に感情移入してしまう人が多く、また大学や学会といった社会全体から見たらかなり均質な集団の中で暮らしている人がほとんどだから、特定の価値観にとらわれていることに無自覚になりがちである。生態学会にいたら「多様な生物がいたほうが良い」、陸水学会にいたら「栄養塩が高すぎない水が良い」みたいな感じかな。でも、それらは社会に存在する多様な価値観の一つに過ぎない。

とある陸水学者に、「そんなことをしたら溶存酸素が低下しますよ!」とすごい剣幕で言われたことがある。その時は、この人は「溶存酸素が高いことは善」という世界で生きていて、それ以上の空想力がないのかなあと思った。

自然科学者だけではない。一部の環境社会学の人たちがもつ「役所は悪」「伝統的文化を守ることは善」みたいなのもそうだろう。

研究者が特定の価値観をもってはいけないとは思わない。むしろ、価値観に依拠せずに研究テーマを選ぶことは難しいと思う(というか「価値観」の定義を突き詰めたら「不可能」ということになるんじゃないかな)。重要なのは、自分が特定の価値観に依拠しているということを自覚することだと思う。その自覚をもたずに、「『科学的』にみて正しい/間違っている」というのは、「科学」という権威の濫用だろう。でも、「科学的」という言葉をそのように暴力的に使う研究者は意外に多いみたい。よろしくないですね。


私は「生物多様性を大切にする社会は人間にとって良い社会だ」と思っている。しかし、これは仮説だし、その仮説を重視するのは私の「特別な」価値観だと思っている。この仮説の検証につながる研究をしたいと思っている。また、価値観の異なる方々への語りかけを続けたいと思う。

「その行為は科学的に間違っています」ではなく、「その行為は生物多様性を損なう可能性があります。生物多様性が失われると何が困るのか、十分にはわかりません。しかしわかった時には取り返しがつきません。将来のためになるべく幅広い選択肢を残しませんか。」と。・・・・長いよなあ、説得力がないよなあ。