2008年6月28日土曜日

二重投稿

査読を引き受けていた論文について、二重投稿だったから査読しなくてよし、との連絡がエディターから入った。まだざっとしか読んでおらずほとんど査読にコストはかけていなかったから「実害」はなかったものの、研究者としての基本ルールを破られたわけで、気分が悪い。

査読を引き受けた論文が不正だったというケースはこれで二度目だ(1件目は盗作だったかな)。偶然かもしれないが二件とも中国の研究者からの投稿である。

投稿論文の査読はボランティアである。それを引き受ける動機は、つきつめれば、査読の仕組みがうまく機能しないと科学が水準を保てず、社会の中から信頼を失い、自分たちの立場も危うくなるからである。と思っている。(私の場合、一刻も早く読みたいという「至近要因」や、エディターに恩を売ったらいいことあるかなという「卑近要因」も。)研究者かどうか、ということは大学や研究所に在籍しているかということではなく、査読つきの雑誌に論文を書いているかどうかということであり、論文査読システムが維持できないと研究者という仕事は存在できない。と思う。自分も世話になるのだから(多少忙しくても)可能な限り引き受ける。

二重投稿や盗作は編集者や査読者の奉仕精神を踏みにじるものだ。実際に時間や労力を無駄に費やしてしまうことにもなる。なんとか防げないものか。

学術会議は科学者の行動規範といった声明をだして不正防止を呼びかけている。これから研究者として仕事をしようとする人が読んで、自覚するのにはとても役立つと思うが、悪い気を起こした人がこれを読んで思いとどまる、ということはないだろう。

現実的な防衛策を考える必要があるだろう。思いつくのは、ブラックリスト、投稿受付段階での類似論文の自動検索、といったところか。類似論文の検索は、ほとんどの学術情報がデジタル化されている現在ではある程度は可能だと思うが、日本語や中国語と英語の二重投稿のケースでは難しいかも。自動翻訳などの技術と組み合わせれば、ある程度まではできるのかな。私が知らないだけで、もうやっているのかな?

今後は査読を引き受けたら類似論文を丁寧に探すことにしよう。本来、査読はそうあるべきだし。

競争主義、インパクトファクター主義が強まると、二重投稿・盗作のケースが増え、その防止にも新たなコストをかける必要が出るのか。世知辛いことである。

2008年6月27日金曜日

大原幽学

利根の変遷と水郷の人々(鈴木久仁直著、崙書房、1985年)を読んでいる。
利根の変遷と水郷の人々 (ふるさと文庫 (123))
いろいろと自分の故郷についての知識が増えて楽しい。

千葉県旭市・干潟町で農業指導・農村指導を展開した大原幽学は干鰯の使用を戒めた。全国的な干鰯の産地、銚子と九十九里がすぐ隣にあるのに、である。草や堆肥を使うように指導した。干鰯を使えば生産性があがるのは明らかである。しかし施肥という農業の本質的な部分への商品経済の侵入を拒否した。干鰯を買い入れた農民は、天候不順で不作だと肥料代も払えない。不作が続くと水田を抵当に持っていかれるからである。

幽学は次第に門下生を増やし、北総の農村復興に大きな貢献をしたが、それが幕府の疑心をまねき、教場は取り壊され、本人は100日間の謹慎処分となってしまう。謹慎があけて戻ってみると、指導してきた村々が旧態にもどってしまっていた。嘆いた幽学は門人への遺書を残して自刃する。

そういえば、私が通っていた小学校の会議室(?)に大原幽学の肖像画があったっけ。なんだか幽霊みたいな名前だな、くらいにしか思っていなかった(ヒドイ・・)。偉い人だったんだねぇ。

この本で一番インパクトがあったのは利根川東遷をめぐる事実や解釈の記述だった。そのうち、メモを作ろう。

2008年6月26日木曜日

高島緑雄「関東中世水田の研究 絵図と地図にみる村落の歴史と景観」 (つづき)

先日読み始めた表記の本から、第5章「中世村落の自然的条件と土地利用:香取社領=谷地田と台地集落の一類型」を読んだ。

千葉県佐原市・小見川町(現在では合併して香取市)の地理的特性と、中世から近世の水田についての論文である。私の故郷に近い場所であるとともに、いまM2のIさんが研究している北浦周辺の土地利用との共通性もあり、興味深く読んだ。

得た知識メモ。
-下総台地の標高は東に行くほど高くなる。台地面と谷との飛行は東部ほど大きい。
→以前から旭市や銚子市の谷津は深くて長い、という印象があったが、台地との比高が影響しているのかも。

-水郷が東京近郊の早場米生産地として有名(だった?)のは、台風時による被害を避けるために極早稲種の稲を育てていたことが関連。

-現在の利根川・常陸川周辺、十六島・新島あたりの「水郷」地帯は長らく一台沼沢地であり、水田の開拓が始まったのは16世紀末ごろからである。

-谷津でも、(谷津の出口が自然堤防で塞がれている場合は特に)河川に近い谷底は悪水がたまりやすく、中世の耕作技術では水田化が困難だった。

-それに対して、谷頭部付近はため池を必要としないほど豊富に地下水が湧出するとともに、傾斜地形のために水の管理もしやすく、また何より河川の氾濫や内水氾濫のような災害が少なく、中世(あるいはそれ以前)から水田耕作が行われてきた。
p.153「水田が分布する谷底面と谷壁の交界線上に、芝地や萱地が帯状に連なっている。これは台地の地下に蓄えられた地下水が滲出する恒常的な湿潤地であり、地下水はこのような湿潤地を媒介として水田に流入する。したがって谷壁直下に用水源をもつ水田にとって、取水と配水の施設はまったく不必要であり、それは古代・中世の水田造成・維持技術、灌漑・排水技術にまさしく適合的といえるのである。」

-谷津の谷頭部付近や谷壁付近が耕作に適していたことは、検地の記録(この地位では1590年代に実施)をみてもわかる。(検地では上田、中田、下田、下々田という等級付けがされている。)

-悪水がたまりやすい谷底では、少なくとも中世には水田化されない場所がかなり点在した。これらのはおそらくヨシ原であり、そのいくつかは、耕作技術が発達した近年になっても、屋根材を供給する部落共有の萱地として残され、特殊な利用慣行が行われてきた。

2008年6月24日火曜日

印旛沼

印旛沼の植生の保全・再生のためのワークショップメンバーになっている。今日は、今年からはじめた再生事業でのモニタリング方法について、千葉県とコンサルの方との現地打ち合わせをしてきた。

印旛沼はかつては沈水植物やアサザ・ガガブタが生育する浅い沼だったが、現在では、水草はオニビシが大群落をつくるのみで、沈水植物は完全に姿を消してしまっている。この印旛沼で、沈水植物や絶滅危惧の水草をシードバンクから復活させて系統を維持すること、水生植物の再生・生育に必要な条件を解明することをを目的としたいくつかの実験が行われている。

その一環で、沼の一角を人工的に仕切り、その中だけ沼とは異なる水位変動を与える実験をしている。オランダで類似例があるものの、日本では例のない実験だ。

印旛沼の水位は、現在では、水の需要がある春~秋の時期と冬の時期のそれぞれに定められた目標水位を維持するように管理されているが、かつては早春を低水位期・秋を高水位期とする、連続的でレンジの大きな変動が存在した。この水位変動は、透明度が低い条件下でも沈水植物の生育を可能にし、ガマ類の繁茂を抑制していた可能性がある。沼全体の水位をかつてのように変動させるのは、いろいろと困難があるので、小規模な(といっても研究者が単独では不可能な大スケールの)実験でこれを検証しようとしている。80m程度の湖岸を三角形に仕切った事業地で、今年の春から水位を下げ、現在、少しずつ水位を上昇させているところだ。

広範囲にわたりシャジクモやオオトリゲモが出現。ほかにもササバモ、コウガイモなども出現。予想はしていものの、(タネも土も撒かない)沼底から沈水がジャンジャン生えてきた光景に感激した。

しっかりデータをとって公表することが重要だ。幸い、コンサル担当者が専門性・柔軟性・機動性の高い頼もしい方で、また県担当者も丁寧な方なので心強い。事業としては成功しつつある。ただし、研究としてみたときは、水位だけでなく波浪や水質などのいくつかの条件が同時に変化していること、反復がないこと、などいくつか難しさがある。これらは他の実験の結果や先行研究の知見と組み合わせて、読み解いていくことになる。このあたり、よく考えて必要なお手伝いをしたいと考えている。

2008年6月22日日曜日

高島緑雄「関東中世水田の研究 絵図と地図にみる村落の歴史と景観」

関東平野での米づくりについてもう少し深く知りたいと思い、いくつか本を入手した。私の関心は稲作そのものよりも、田んぼが氾濫原の生物のハビタットとしてどのような特徴・多様性を持つものだったのか、それが、いつどのように変化したのか、ということにあるのだけど。

今はこれを読んでいる。


専門外で基礎知識がない分野なので、誤解しているかもしれないけど、印象に残った内容をメモする。
- 谷戸・谷津の水田は、湧水源があるものの、それを貯めると大変な深田(フケタ=一年中水が引かない田)となるため稲作は容易ではなかった。
- 谷津や自然堤防周辺の水田では、苗植えではなく、摘田(ツミタ=直播)が少なくとも明治期ごろまで行われていた。
- 稲作には苦労を伴う谷津田だが、もっとも原始的で安定した水田でもあった。

谷津田(特に谷の奥の湧水点付近)と、河川周辺の平田では、米の生産方法にもだいぶ違いがあったようだ。土地の来歴に加えて管理の違いも水田の生物に影響していたに違いない。

谷津田と平田の管理の実際についてもう少し詳しく知りたい。中世以降の水田雑草や害虫についての文献はないのだろうか。どなたかご存知でしたら教えてください。

2008年6月20日金曜日

氾濫原の水田は遊水地に

「利根川東遷の立役者となった関東流の治水思想は、洪水を肩すかしさせるやり方である。美田の増加を念頭に置きながらも、自然の流れにあまりさからわず、霞堤や越流堤によって、川沿いの沼地や湿地に洪水を遊水させながら水路と水田を開き、生産性の高い下流に、河水があふれないように工夫するのである」(中村良夫「湿地転生の記 風景学の挑戦」)

折りしもこの本を読み終えたその日の新聞記事に「水害にスーパー堤防整備 温暖化対策、初の報告書」とあった。

ますます大型化する台風、上昇する海水面。高まる氾濫のリスクに対して「力には力で」というのがこの(現代の)方針である。しかしスーパー堤防を増やすことには途方もない資金がかかるだろうし、大規模な自然破壊が必要になるだろう。氾濫原に「丘」をつくるようなものなのだから。

対して、いわば河川周辺の水田(=一種の湿地)を洪水時の遊水地として使う「肩すかし」方式は、その年は米の生産が落ちるとしても、氾濫で運ばれてくる栄養塩を含んだ土砂が供給され、施肥量も少なくてすむなどのメリットもあるんじゃないないなかぁ。生産の減少を補償したとしても、「スーパー堤防」より安いのでは?水田や水路などの場が、氾濫原の生物のハビタットとなるのは間違いないだろう。

こういう「しなやかな対策」は検討されているのだろうか。

2008年6月19日木曜日

中村良夫「湿地転生の記-風景学の挑戦」

古河公方のゆかりの「御所沼」。近代化の中で埋め立てられ、地域から忘れられてしまった沼を公園として再生させた取り組みの話題を中心に、「風景の再生」について述べた本である。



前半(1~3章)は、関東平野の氾濫原と「谷戸」の原風景、その変化について述べられている。この描写が圧巻で、沼に引き込まれるみたいに一息に読んだ。

「古河はまた水の町でもある。
平べったい野辺のいたるところに小川が流れている。その毛細血管のように細い、込み入った流れが、ときに沼へとけ込むかとみれば、また流れ出て、たがいに交じり合いながら、おしなべて渡良瀬川に落ち込んでいく。」

古鬼怒湾と古東京湾の時代から始まる地史の詳細な解説から、古事記の引用も交えて、関東平野の原風景がわかりやすく述べられている。その文章の美しいこと!

「水あって河道なく、川あって幹流なし。後の世に利根川、渡良瀬川と呼ばれる八百八筋の彼方に、火山の噴煙がいく筋もたなびいていた。古墳時代の人々を、大地の縁に立って、はるかなる蒼茫の地をどんな気持ちで眺めただろう。それは、容易に近づけぬ聖地ではなかったろうか。この時期の関東人にとって、中原の大湿地もまた大山高岳と同じ遥拝の地であったように思えてならない。」

怖ろしくも慕わしい川や湿地、というイメージが本当に見事に表現されている。写実だけの表現では伝わらない、自然を前にして感じる畏怖とか、歴史を知ったときに感じる重みとかいった感情が見事に伝わる文章と構成。

「狂った水圧を押しとどめようと、うち震える土手。その上に立つわたしの顔に、泥流のしぶきが飛び散る。それが下流に走るかとみれば、また上流に向かって逆巻く。-膨らんだ利根川の水に、押し戻されてくるんだ・・・。」

もう降参。一文も隙がない感じ。

後半では、公園として沼を再生させた取り組みが解説されている。その精神は「自然再生事業」と通じるものがある。

「物静かで、そしてうつろいやすい里山。その自然には人間の刻印が打たれ、そこに棲む人間には自然の影が映っている。里山に混じって暮らす人は、その山野の姿に自分の命を重ねるだろう。人々がこの風土的様式の崩壊におののくのは、自分のアイデンティティがそこにかかっているからに違いない。」

機会をつくって御所沼を再生した公園(古河総合公園)に行ってみようと思った。ただ、この本で感動したからといって、公園に過剰な期待はしていない。それはこの本が誇大広告という意味ではない。今のわたしはきっと、水ぎわに顔を近づけて珍しい植物をさがして評価してしまい、ここの「売り」であるはずの施設のたたずまいや「名所」としての要素を、楽しむことができないだろいう、ということである。

とにかく面白かったー。また読み返すに違いない一冊。氾濫原の自然とヒトの生活に興味のある人はぜひ読むべし。

2008年6月12日木曜日

スタート

本を読んだり講演を聴いたりして感じたこと、思いついたこと、好きな音楽、その他日々の雑感を気が向いたときに書きます。誰かが読むかもしれない、と思うと作文の練習になるかと思って。