きのう行った霞ヶ浦についてちょっと別の話題。
近年、霞ヶ浦の湖岸にあるヨシ原は、年々面積が小さくなっています。どんなふうに?ヨシ原の湖側の端に行くと、下の写真のように、ヨシを植木鉢に植えたように、丸く高密度に稈が生えた「株立ち状態」になっています。これは、ヨシが生えていた地盤の砂が失われ、ヨシの地下茎どうしが絡み合って辛うじて立っている状態です。このような「株立ち状態」になると、強い波が来た時に、株ごとボッキリと折れて流されてしまいます。そして、新しく前線にさらされたヨシの株もとの砂が失われ始めます。
霞ヶ浦ではこのような「侵食によるヨシ原前線の後退」が全域で進んでいます。複数の地点での測量結果を整理したところ、平均すると年間70㎝の速度で、前線が後退していることがわかりました。
水辺の植生は、鳥類や湿地の植物が生育する場になるだけでなく、コイ科の魚の産卵場所、エビ類の生息場所になるなど、さまざまな役割を担っています。このままヨシ原の衰退が続けば、生態系の様々な側面に不具合が生じ、漁業をはじめとする産業にも影響が及ぶと考えられます。
このような侵食が生じる理由は2つ考えられます。①高い水位を長期間維持するようになっているため、②湖内で砂利や砂の採掘を続けているため、です。①の問題については、これまで複数の角度から検討し、いくつか論文を書いてきました。昨年はそれらの結果をまとめ、水位管理方針の再検討の必要性を訴える「意見論文」も、「保全生態学研究」に発表しました。現在の霞ヶ浦では、ヨシ原の侵食をさらに加速するような「水位運用試験」が進められているからです(しかも「環境との共存を模索するため」という目的で!)。
原著論文を書いて、意見論文を書いて、国土交通省の事務所に説明に行って、とやってきましたが、解決の糸口は今のところ見えません。水位を高くする管理を行うのは、利水のためです。湖沼の環境管理に責任をもつ国土交通省と、水の利用の権利をもつ都県が協力し、水の利用の面でも自然環境の面でも最終的な影響を受ける(次世代への責任をもっている)地域の方々を中心に据えた相談の場を設けて欲しい。科学は「こんな管理をしたらこんな影響が出る」といった情報を提供するお手伝いができますので、なるべく使って欲しいなあと思います。
関連の日本語文献
西廣淳 (2012) 霞ヶ浦における水位操作開始後の抽水植物帯面積の減少.保全生態学研究, 17:
141-146.
西廣淳 (2011) 湖の水位操作が湖岸の植物の更新に及ぼす影響. 保全生態学研究, 16: 139-148.
西廣淳 (2012) 霞ヶ浦における国土交通省による「水位運用試験」への意見. 保全生態学研究. 17: 279-282.
東邦大学で保全生態学を勉強している西廣淳のブログです。更新は断続的です。頻繁な情報発信はフェイスブックとツイッターでしております。 | Facebook https://www.facebook.com/jun.nishihiro | Twitter https://twitter.com/jnishihiro | 本業のウェブページ http://www.lab.toho-u.ac.jp/sci/env/coneco/
2013年3月25日月曜日
2013年3月24日日曜日
妙岐の鼻の春
きょうは関東の湿地の「生物多様性ホットスポット」、霞ヶ浦湖岸の妙岐の鼻(浮島湿原)で調査をしました。この場所の植物の存続のカギを握るのは、水質と「火」です。妙岐の鼻の火入れは2006年以降、市民からのクレームがもとで停止されましたが、2009年からは、「試験的」という注釈つきで、とても小規模に再開。徐々に規模を拡大する相談を始めていました。そのような中、2011年に原発事故、放射性物質の拡散リスクという新たな課題も生じました。
地域になるべく多くの判断材料を提供できるよう、ぼくも、火の効果の検証(優秀な学生さんのおかげでずいぶん成果が出た)、安全な火入れの方法の検討(小貝川や菅生沼での火入れを通じて協力体制ができた)、放射性物質の拡散リスク評価(土壌物理・水文学・植物整理の専門家に相談したり何を測定したらよいか教えてもらったり)などに着手していましたが、そんな矢先、今年は1月末に不審火で湿原の大半が焼けました。幸い、延焼被害もなく、役所にも「久しぶりだねえ」という声は届いたけど苦情はなかったとのことでした。災い転じて・・ではないですが、ぼくも、この機会にしっかりモニタリングしたいと思います。
野焼きを何年も停止してしまうと再開が難しくなります。理由は3つ。①樹木が成長したり枯草がたまりすぎたりして火の制御が難しくなる。②地下茎や埋土種子からの再生ポテンシャルが低減する。③火入れを実行する人々の連帯と安全確実な火入れの技術が失われる。ぼくの勘では、3年間間を開けたら要注意。
野焼きは、短期的にみるとリスクが大きい割に受益者がとても少ない、しかし長期的にみると、伝統的な文化や生物多様性といった次世代への財産を維持する上でとても重要。昔とは違う枠組みで、維持していくべきではないかと考えます。
ぼくは野焼きを「お祭り」にできたらいいと思っています。妙岐の鼻、渡良瀬遊水地、小貝川、菅生沼など、火入れをめぐって議論がある関東の湿地の中で、小貝川だけほとんど目立った反対もなく継続できているのは、主催されている先生のお人柄に加えて、同じ河川敷で「どんど焼き」のお祭りがあるからではないかと思います。「野焼きを維持する現代的枠組み」として、行政を動きやすくする「指定」や条例も有効ですが、最後は「お祭り」を目指したらいいんじゃないかと思っています。観光客に向けて演じるお祭りではなく、地域で協力して段取りをして、大きな火で高揚感をあおられながら、結束を高める儀式。
妙岐の鼻の管理の問題は、野焼きだけではありません。萱を刈り取って利用する活動は、文化の維持のみならず、絶滅危惧植物の維持にもプラスに働く、重要な役割を担っているのですが、近年、刈り取った萱を運び出すのに重い機械を使うようになり、その轍が湿地の植生に強く影響しています。重さをかけてもダメージが少ない浜堤上をなるべく通るようにするなど、工夫していただけるとありがたいのです。
もちろん地元の方からも研究者に言いたいことがあるでしょう。そんな意見交換が、できる雰囲気や場を作りたいなあと思っている次第。
関連の文献
野副健司・西廣淳・ホーテス シュテファン・鷲谷いづみ (2010) 霞ヶ浦湖岸「妙岐の鼻湿原」における植物の種多様性指標としてのカモノハシ.保全生態学研究.15: 281-290.
Wang, Z., Nishihiro, J. and Washitani, I. (2011) Facilitation of plant species richness and endangered species by a tussock grass in a moist tall grassland revealed using hierarchical Bayesian analysis. Ecological Research. 26: 1103-1111.
Wang, Z., Nishihiro, J. and Washitani, I. (2012) Regeneration of native vascular plants facilitated by Ischaemum aristatum var. glaucum tussocks: an experimental demonstration. Ecological Research. 27: 239-244.
地域になるべく多くの判断材料を提供できるよう、ぼくも、火の効果の検証(優秀な学生さんのおかげでずいぶん成果が出た)、安全な火入れの方法の検討(小貝川や菅生沼での火入れを通じて協力体制ができた)、放射性物質の拡散リスク評価(土壌物理・水文学・植物整理の専門家に相談したり何を測定したらよいか教えてもらったり)などに着手していましたが、そんな矢先、今年は1月末に不審火で湿原の大半が焼けました。幸い、延焼被害もなく、役所にも「久しぶりだねえ」という声は届いたけど苦情はなかったとのことでした。災い転じて・・ではないですが、ぼくも、この機会にしっかりモニタリングしたいと思います。
野焼きを何年も停止してしまうと再開が難しくなります。理由は3つ。①樹木が成長したり枯草がたまりすぎたりして火の制御が難しくなる。②地下茎や埋土種子からの再生ポテンシャルが低減する。③火入れを実行する人々の連帯と安全確実な火入れの技術が失われる。ぼくの勘では、3年間間を開けたら要注意。
野焼きは、短期的にみるとリスクが大きい割に受益者がとても少ない、しかし長期的にみると、伝統的な文化や生物多様性といった次世代への財産を維持する上でとても重要。昔とは違う枠組みで、維持していくべきではないかと考えます。
ぼくは野焼きを「お祭り」にできたらいいと思っています。妙岐の鼻、渡良瀬遊水地、小貝川、菅生沼など、火入れをめぐって議論がある関東の湿地の中で、小貝川だけほとんど目立った反対もなく継続できているのは、主催されている先生のお人柄に加えて、同じ河川敷で「どんど焼き」のお祭りがあるからではないかと思います。「野焼きを維持する現代的枠組み」として、行政を動きやすくする「指定」や条例も有効ですが、最後は「お祭り」を目指したらいいんじゃないかと思っています。観光客に向けて演じるお祭りではなく、地域で協力して段取りをして、大きな火で高揚感をあおられながら、結束を高める儀式。
妙岐の鼻の管理の問題は、野焼きだけではありません。萱を刈り取って利用する活動は、文化の維持のみならず、絶滅危惧植物の維持にもプラスに働く、重要な役割を担っているのですが、近年、刈り取った萱を運び出すのに重い機械を使うようになり、その轍が湿地の植生に強く影響しています。重さをかけてもダメージが少ない浜堤上をなるべく通るようにするなど、工夫していただけるとありがたいのです。
もちろん地元の方からも研究者に言いたいことがあるでしょう。そんな意見交換が、できる雰囲気や場を作りたいなあと思っている次第。
関連の文献
野副健司・西廣淳・ホーテス シュテファン・鷲谷いづみ (2010) 霞ヶ浦湖岸「妙岐の鼻湿原」における植物の種多様性指標としてのカモノハシ.保全生態学研究.15: 281-290.
Wang, Z., Nishihiro, J. and Washitani, I. (2011) Facilitation of plant species richness and endangered species by a tussock grass in a moist tall grassland revealed using hierarchical Bayesian analysis. Ecological Research. 26: 1103-1111.
Wang, Z., Nishihiro, J. and Washitani, I. (2012) Regeneration of native vascular plants facilitated by Ischaemum aristatum var. glaucum tussocks: an experimental demonstration. Ecological Research. 27: 239-244.
2013年3月11日月曜日
震災から2年
私らが上の世代から引き継いだよりも困難が多い時代を渡されることになりそうな子どもたちに、どんなメッセージが伝えられるか。とりあえず、たくさん食べよう、たくさん遊ぼう、たくさん考えよう、という話をした。
2013年2月28日木曜日
はる~!
小貝川(野焼きをした場所)と、霞ヶ浦浮島妙岐の鼻(今年不審火で広範囲が焼けた場所)に行き、地表面の温度測定のセッティングをしてきた。
でも本当はもっと早くやるべきでした。もう春ですよ。
でも本当はもっと早くやるべきでした。もう春ですよ。
ノウルシの芽だし
にょろにょろ生えてきたのはアマナ
2013年2月16日土曜日
「科学的に正しい」?
「科学的にみて間違った活動が行われている」と憤る研究者は多い。でもこの批判はおかしい。
たとえば「川の石を磨いて藻類をはがして川をきれいにしましょう」という活動があったとする。確かにご飯を吹き出してしまいそうな話だ。しかし、これを「間違い」とする判断が成り立つのは、たとえば「多様な生き物が暮らす川がよい」といった特定の価値観を前提とした場合に限られる。もし「子どもが足を滑らせにくい川がよい」という価値観を前提とすれば、道理にかなった行為と言えるだろう。科学は、ある行為をすればどのようなことが起こるか予測することに役立つだけで、その行為が「正しい」かどうかにの判断材料はもたらさない。
自然科学の研究者には、自分自身が対象への強い思い入れがあって研究の道に入った人や研究対象に感情移入してしまう人が多く、また大学や学会といった社会全体から見たらかなり均質な集団の中で暮らしている人がほとんどだから、特定の価値観にとらわれていることに無自覚になりがちである。生態学会にいたら「多様な生物がいたほうが良い」、陸水学会にいたら「栄養塩が高すぎない水が良い」みたいな感じかな。でも、それらは社会に存在する多様な価値観の一つに過ぎない。
とある陸水学者に、「そんなことをしたら溶存酸素が低下しますよ!」とすごい剣幕で言われたことがある。その時は、この人は「溶存酸素が高いことは善」という世界で生きていて、それ以上の空想力がないのかなあと思った。
自然科学者だけではない。一部の環境社会学の人たちがもつ「役所は悪」「伝統的文化を守ることは善」みたいなのもそうだろう。
研究者が特定の価値観をもってはいけないとは思わない。むしろ、価値観に依拠せずに研究テーマを選ぶことは難しいと思う(というか「価値観」の定義を突き詰めたら「不可能」ということになるんじゃないかな)。重要なのは、自分が特定の価値観に依拠しているということを自覚することだと思う。その自覚をもたずに、「『科学的』にみて正しい/間違っている」というのは、「科学」という権威の濫用だろう。でも、「科学的」という言葉をそのように暴力的に使う研究者は意外に多いみたい。よろしくないですね。
私は「生物多様性を大切にする社会は人間にとって良い社会だ」と思っている。しかし、これは仮説だし、その仮説を重視するのは私の「特別な」価値観だと思っている。この仮説の検証につながる研究をしたいと思っている。また、価値観の異なる方々への語りかけを続けたいと思う。
「その行為は科学的に間違っています」ではなく、「その行為は生物多様性を損なう可能性があります。生物多様性が失われると何が困るのか、十分にはわかりません。しかしわかった時には取り返しがつきません。将来のためになるべく幅広い選択肢を残しませんか。」と。・・・・長いよなあ、説得力がないよなあ。
たとえば「川の石を磨いて藻類をはがして川をきれいにしましょう」という活動があったとする。確かにご飯を吹き出してしまいそうな話だ。しかし、これを「間違い」とする判断が成り立つのは、たとえば「多様な生き物が暮らす川がよい」といった特定の価値観を前提とした場合に限られる。もし「子どもが足を滑らせにくい川がよい」という価値観を前提とすれば、道理にかなった行為と言えるだろう。科学は、ある行為をすればどのようなことが起こるか予測することに役立つだけで、その行為が「正しい」かどうかにの判断材料はもたらさない。
自然科学の研究者には、自分自身が対象への強い思い入れがあって研究の道に入った人や研究対象に感情移入してしまう人が多く、また大学や学会といった社会全体から見たらかなり均質な集団の中で暮らしている人がほとんどだから、特定の価値観にとらわれていることに無自覚になりがちである。生態学会にいたら「多様な生物がいたほうが良い」、陸水学会にいたら「栄養塩が高すぎない水が良い」みたいな感じかな。でも、それらは社会に存在する多様な価値観の一つに過ぎない。
とある陸水学者に、「そんなことをしたら溶存酸素が低下しますよ!」とすごい剣幕で言われたことがある。その時は、この人は「溶存酸素が高いことは善」という世界で生きていて、それ以上の空想力がないのかなあと思った。
自然科学者だけではない。一部の環境社会学の人たちがもつ「役所は悪」「伝統的文化を守ることは善」みたいなのもそうだろう。
研究者が特定の価値観をもってはいけないとは思わない。むしろ、価値観に依拠せずに研究テーマを選ぶことは難しいと思う(というか「価値観」の定義を突き詰めたら「不可能」ということになるんじゃないかな)。重要なのは、自分が特定の価値観に依拠しているということを自覚することだと思う。その自覚をもたずに、「『科学的』にみて正しい/間違っている」というのは、「科学」という権威の濫用だろう。でも、「科学的」という言葉をそのように暴力的に使う研究者は意外に多いみたい。よろしくないですね。
私は「生物多様性を大切にする社会は人間にとって良い社会だ」と思っている。しかし、これは仮説だし、その仮説を重視するのは私の「特別な」価値観だと思っている。この仮説の検証につながる研究をしたいと思っている。また、価値観の異なる方々への語りかけを続けたいと思う。
「その行為は科学的に間違っています」ではなく、「その行為は生物多様性を損なう可能性があります。生物多様性が失われると何が困るのか、十分にはわかりません。しかしわかった時には取り返しがつきません。将来のためになるべく幅広い選択肢を残しませんか。」と。・・・・長いよなあ、説得力がないよなあ。
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