子供のころ(たしか小学校に入る前から低学年ごろ)、母親や伯母と一緒によく利根川にシジミとりに行った。ドロの中から足や手で探り当てて、なるべく大粒をバケツにとる。晩の味噌汁の具にする。
ある日、シジミを取っていると漁師に怒鳴られたことがあった。どんな言葉で叱られたか覚えてはいないが、ただ、とても怖かった。
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鈴木久仁直著利根の変遷と水郷の人々 (ふるさと文庫 (123))を読んで、このころのシジミ漁の背景が少しわかった。
私が生まれた1971年は利根川の河口堰が完成した年である。その直前の1960年代には、シジミは利根川における漁獲のおよそ9割(重量比、千葉県の場合)を占めていた。いうまでもなくシジミ漁が盛んなのは汽水域である。利根川下流域は勾配がゆるく、佐原市のあたりまで汽水が入り込んでいた。佐原から銚子にかけての利根川一帯はシジミ漁が盛んな地域だった。特に私の故郷である笹川河岸付近のシジミは「笹川蜆」というブランド品だったという。
河口堰により塩水の溯上が止められると漁業に支障がでるのは間違いない。河口堰が建設された理由は以下の2つ。
-農業用水への塩害防止。特に笹川に取水口をもつ大利根用水への塩水流入の抑制は地域にとって重要な課題だった。
-新規利水の開発。ただし、この利水は地元よりも東京にとっての課題だった。実際、河口堰によって生まれた利水権の62%は東京都が持っており、千葉県は32%、茨城県は0だった。
漁業者は河口堰計画反対の意見を提出した。しかしそれが聞き入られることはなく、異例に安い補償金の支払いで決着したという。その原因を、鈴木氏は次のように分析している。
-地元は半農半漁であり、塩害防止を理由に出されると反対しにくい事情があった。
-「河口堰による被害は少ない」という学識経験者のまとめた調査報告が、漁民へ押し付けられた。
-当初は河口堰建設反対のために結成され、次第に補償交渉の対応を担った「利根川河口堰漁業対策協議会」では、千葉・茨城の利根川下流の漁民ではなく、栃木・埼玉・群馬の上流の漁民が主導権を握った。生活の漁業への依存度が高いのはシジミ・サケ・ウナギを主要な魚種とする下流の漁民であり、アユなどを主要な魚種とする上流の漁民は遊漁者的というように、そもそも漁業の位置づけに大きな違いがあり、下流漁民の実情を適切に反映した交渉にならなかった。
シジミの死滅は、河口堰が竣工した年(1971年)に早速現れ、それ以降、夏になるとシジミの大量死が繰り返された。「学識経験者」の予測をはるかに上回る被害が出た。漁民は河口堰の開放とシジミ被害の補償を要求したが、聞き入れられることはなかった。一方、漁民は種シジミの放流を繰り返した。種シジミの放流は、河口堰の下流側に養殖場を決めて行われた。それでも、短期的に漁獲が回復することはあっても、すぐに低迷した。
1975年には河口堰開放を求めるデモが行われた。私が漁師さんにどなられたのは、この頃か数年後くらいだろう。
私らがシジミを採る場所は、年々下流に移動した。笹川では採れなくなって河口堰の下流の銚子まで行くことも多かった。種シジミ撒いてた近くだったのだろう。知ってたのかな?うちの親は。
その後、1978年に千葉県・水資源開発公団・関係する漁協の間の交渉が再開された。1979年にはシジミの漁業権を全て買い取る合意がなされ、総額40億円の補償が支払われた。これで、シジミの漁業権は利根川から消失した。