通勤時間をつかって、関東平野の湿地と人の歴史についての読書を続けている。農業・治水・人文地理など、異なる視点から「関東平野」に関する本を読むことで、自分で生態学のフィールドとしている地域の背景を立体的に理解しようというのが狙いだ。
これまでの読書で
・主流路が不明瞭で、分流・合流を繰り返しながら低平地のヨシ原を流れる河川。頻繁な洪水とそれで作られる肥沃な土地。
・主な集落や中世の城・寺社は自然堤防や台地の縁に。
・低湿地は、排水の悪さと洪水の影響とで水田化は困難。谷津の奥部から(湿田の)耕作がはじまり、徐々に河川に近い低湿地に拡大された。
というイメージがつくられてきた。
さて、これまで農地=水田と思い込んでしまっていたが、「地文学事始 日本人はどのように国土をつくったか」を読んでそんな単純ではないことがわかった。
第九章「古河公方の転と地、あるいは乱の地文学(中村良夫)」の図5(p.220)には、古河市史からの引用として、江戸期から1980年代にかけての古河における農地の内訳の変遷が示されている。これによると、江戸期には、田が166.7町歩に対して畑は752.6町歩と約4.5倍多かった。畑>田の関係は昭和まで続き、両者の面積がほぼ同じになるのは1970年ごろ。1980年代にようやく逆転している。また、表1(p.221)には、江戸後期における谷中郷(渡良瀬遊水地に没した旧谷中村)における農地の内訳がしめされており、これによると田は105町歩に対して畑は544町歩と、約5倍である。関東の低湿地の中でも特に「水の領分」に近い村でもこのバランス。「水が多い」=「水田地帯」という思い込みはしないほうが良さそうだ。
中村氏は次のように述べている(p.221)。
「戦後の食糧不足の時は、古河のような田園に囲まれた小都市においても白米のご飯はなかなか庶民の口に入らなかった。それを実感している者として、中世においても米はとても一般の主食にはなりえなかったとする主張はもっともに聞こえる。大麦、小麦、大豆、小豆、ヒエ、アワ、ソバ、それにいくらかの根菜類と、蔬菜の畑は、荒野を切り開いていった開発領主と地侍あるいは農民たちの見慣れた農村の景観だったのではないか、と思う。」
しかし、この変化は単純に「新田開発に伴って水田が増え、雑穀から米中心に変化した」と考えてしまっては、それも誤りだと思う。図5のデータをよく見ると、畑>田から畑<田への逆転は、田の増加以上に、畑の減少によって生じている。
(古河の農地内訳)
明治初期(1880頃):畑=773.6ha、田=165.4ha
昭和45年(1970年):畑=350.1ha、田=324.2ha
台地の上や自然堤防上に広がっていた畑が、住宅地などに変化してきたということなのだろうか。このくらいの変化であれば昔と今の地形図を並べるだけでわかりそうだ。(でも今日はここまで)