2008年8月31日日曜日

洪水の受容

 週末に小貝川河畔で実施を予定していた学生実習を延期した.実習を予定していた河川敷は完全に冠水し,近寄ることさえ危険だったからだ.
 今年は台風は一つも来ないのに,大雨は多い.今回の雨も停滞した前線によるものだが,全国で多くの家屋が浸水した.私が住む我孫子市でも観測史上最大の時間降雨量が記録され,床上浸水が発生した.


増水した桜川

 折しも,東大の沖大幹先生の「治水対策・あふれることを前提に」という意見が28日の朝日新聞のOpinion欄に掲載された直後だった.沖先生の意見は国土交通省による「気候変動に適応した治水対策検討小委員会」の委員という立場から書かれたものだが,表題の通り「あふれること」を想定した社会をつくる必要性が述べられている.沖先生のOpinionの要点:
・ダムと堤防で水害を完全に防ぐというのは現実的ではない.利根川では200年に1度の確率で生じる規模の大洪水もあふれさせないようにすることを目標にした整備計画があるが,実際には30年に1度の確率の中洪水を防ぐ程度の工事さえ,約6割しか完了していない.しかも気候変動により,大洪水が生じる確率は高まることが予測されている.
・今後は水があふれ出ることを前提とした総合的な「治水」に転換する必要がある.その際には,大洪水の際には氾濫を許容する地域の設定の仕方や補償の方法,リスクの高い土地の開発の制限の方法などが課題になる.しかし,人口が減少に転じる今後こそ,この方向に転換するチャンスである.
・洪水のおそれがあるときは仕事を休み,住民総出で治水の作業にあたる社会も考えるべきである.

 とても説得力のある意見だと思う.特に最後の部分.大雨の晩,本来土嚢を積んで町や家を守るべき「お父さん」たちが出勤したきり東京に取り残されているようでは心許ない.
 洪水を受容する社会への転換は,インフラの整備だけでなく,暮らし方・考え方の転換も必要だ.しかし,合理的に考えれば本当に必要な転換だと思う.

ところで,
「洪水をあふれさせる場所」は,利用するなら田んぼが最適だろう.冠水したら収量は減るが,洪水から町を守る役割を果たしたのだから,その分くらいは補償しても納得がいく.さらに,そのような「氾濫原田んぼ」での除草剤や殺虫剤を使わない稲作を推奨したり,休耕する田んぼを選ぶ際に氾濫原の田んぼを優先させるといった工夫をすれば,湿地の生物の保全には絶大な効果があると思う.

 氾濫原の生物にとって本来洪水は移動・分散,漂着のチャンスである.植物の種子も洪水の際に大量に輸送される.しかし,コンクリートで固められた河川ではそのような種子はたどり着くところを失ってしまう.一方,周辺の湿地・田んぼに水があふれたら,そこにたどり着くことができるだろう.
 洪水が生態系に与える影響というと,「攪乱」が強調されることが多いが,少なくとも河川の下流域では生物の輸送・移動・漂着への効果が,とても重要なのだ.

さらに洪水とともに運ばれる泥は豊富な栄養分を含むため,氾濫原の田んぼへの施肥効果をもつという農業へのメリットもあるのではないか.このような評価って行われていないのかな.洪水で冠水した水田をみて,そう思った.


川からの洪水で冠水した水田

「堤防から洪水を一滴ももらすな」とでもいうゼロリスク目標を掲げた事業のため,これまで河川や湖沼の自然は破壊され続けてきた.「川があふれることを前提とした社会づくり」を考えるなら,氾濫原の保全や再生は両立できるはずだ.治水の議論でも,ぜひそのような視点を取り込んでいただきたいものだ.

2008年8月24日日曜日

湿原聖地

金井典美著 湿原祭祀第二版 を読了


稲作を中心に文化を発達させてきた日本では、湿原を聖地として祭り、占い、崇拝の対象としてきた。このことを多くの実例に基づいて解説した本である。いくつか大胆な推論を述べているところもあるが、高層湿原を見たときに神秘性を感じたり、ヨシ原に分け入ったときに豊饒のイメージを感じたり、という個人的な経験から、とても納得のいく内容だった。

本書では、湿原聖地の代表的なタイプとして、次の二つを取り上げている。一つはカヤツリグサ科やイネ科の植物がまばらに生える高層湿原である。東北日本では、里が旱魃の年でも湿潤を保ち、稲に似た植物が生える山頂の高層湿原は、「神の田んぼ」として信仰されてきた。豊凶の占いに用いたと考えられる古銭などが、このような湿原で多く発見されているという。山頂の湿原の地名に「田代」「苗代」と言葉が含まれていることが多いのは、そのような風習の名残らしい。(そういえば田代山の山頂にも綺麗な湿原があったなぁ。)著者は、このような「山上の神の田んぼ」の存在は、雲南省や熱帯アジアで発達した山岳地帯での稲作が日本に伝播したことを反映したものではないかと考察している。

もう一つの代表的な湿原聖地は、ヨシ原である。古事記や日本書紀に書かれているように、日本の国土は、当初は水面に浮かび漂う多くの浮島で、それらはヨシが生えることによって固定されたものという国土観が古代から存在した。この物語を想起させるような湿原、たとえば実際に浮島(floating island)をもつ湿原や、ヨシが水面の中にまとまって島のような景観を形成している場所は、聖地とされることが多かったそうだ。

ヨシ原となるような低地の湿地は、田んぼとして開墾されてきた場所であり、そこの地母神として、湿地そのものや湿地に多い動物であり水の象徴でもあるヘビ、湿地の植物が信仰の対象とされてきた。植物としては、特にスゲ類がよく信仰の対象となり、名前に「菅」を含む神社が多いのはその反映だという。著者はスゲ類が重視されている背景には、スゲが多く生育している場所は稲作に適しているなどの理由があったと考察している。

古代の人々が、稲作に適した場所を探すときに、その場所に生育していた植物種・成立していた植生を手がかりにしたと想定するのは妥当だろう。ヨシは生育適地の幅の広い植物だから、ヨシだけを手がかりにしたのでは、最適な場所を見つけるのは難しかったかもしれない。その点、日本に約250種が分布し、それぞれが微妙な環境の違いに対応して分布しているスゲ類(Carex)は、よい「指標種」となった、と考えるのはスゲ好きの私には楽しい空想だ。たとえば、千葉県北部・茨城県南部を見る限り、オニスゲは谷の水源付近に多い。このようなスゲは安定した湧水源の指標になるように思われる。

湿地を聖地とした習慣の証拠は、弥生・縄文時代まだ遡れるという。本書で特に面白く印象に残ったのは、弥生時代に盛んにつくられた銅鐸についての考察である。銅鐸は祭祀の道具と考えられているが、丘陵の谷に臨んだ水辺の傾斜地、小さな湿原のやや上方、湿生草原の辺縁部から出土することが多いという。ここで著者は、銅鐸を谷間の水田そのものを象形した祭器であるという推測を述べている。つまり、台形をした銅鐸の形は、谷の水源地から里に向かって扇形に広がる水田の形を現しているというのだ。谷津の湧水点にあたる銅鐸の上端部分に、目を象った模様があるものもあるという。この推測の妥当性は専門外の私にはわからないが、これまで特に意識しなかった「銅鐸の形」が自分のフィールドの地形を象っているのかもしれない、と思うだけで、とても楽しくなった。
 湿地のフィールドワークのお守りは、「台形の鈴」がいいかもしれない。

2008年8月21日木曜日

東北水草旅行

3日間かけて,一関市内のため池,下北・小川原湖,津軽・十三湖とその南側の湖沼群をまわってきた.

一関で「農業と一体の自然」を堪能.ため池や田の畔が,湿地の植物の重要なハビタットであることを強く実感.

小川原湖.
 八郎湖は埋め立てられ,霞ヶ浦は水質悪化・堤防建設・水位改変で徹底的に痛めつけられ,日本の「大きな海跡湖の自然」はほとんど失われてしまった.そのような中,小川原湖ではまだ本来の姿を見ることができる.小川原湖があってよかった,とつくづく思った.霞ヶ浦で本格的に自然再生を考えるとき,この湖から学ぶべきことは多いだろう.
 しかし小川原湖でも栄養塩の濃度などは上昇傾向という.水質の悪化と水草の減少は直線的な関係ではなく,負荷の閾値を越えると植物は急速にいなくなる.そうなる前に適切な管理をして,なんとかこの自然を残したいものだ.

砂土路川河口付近の,浮葉植物(アサザ)と沈水植物(セキショウモ,イバラモ,クロモ,ツツイトモなど)が混生する群落.

セキショウモがちょうど開花期.らせん状に伸びる雌花の花柄.

津軽半島には,砂丘列の間に小さな湖沼やため池がたくさんみられる.



極楽浄土ってこんな感じ?行きの電車で湿原と信仰に関する本を読んでいたせいもあって「神秘」に触れたような気持ちになった.

ほんの3日間だったが,「早朝から日没まですぐれた自然を堪能して夜は深夜まで標本作り」という「自然史の時間」を心から楽しんだ.原点に帰った感じ.

2008年8月9日土曜日

農耕起源の人類史(ベルウッド),後半

本業で読まなければならないものが多くなり中断していたが,ようやく読了した.



この本のウリは,農業の拡散経路について世界規模で網羅的にレビューされていることである.タイトルに「起源」を謳っている割に,農業そのものの発生についてはあまり深くは述べられていない.また,実際にデータを引用しながら栽培の拡散過程について述べられている作物は主に「主要穀物」であり,様々な作物や飼育動物や習慣といった文化のセットの伝播という視点が弱く,中尾佐助先生や佐々木高明先生の本の記述を思い出すと,すこし平板な印象を受けた.しかし,ここまで世界の主要な農業を網羅したことは本当に価値が高い.

このレビューを貫いているのは,農業の拡散過程では栽培技術や作物がリレーのバトンのように受け渡されて行ったのではなく,栽培技術を持った人々が作物を「携えて」拡散した,という見方である.この見方自体は特に新鮮なものではないということが巻末の訳者による解題で述べられている.確かに意外性は感じない.しかし,このレビューの価値は,直感的にも理解しやすいこの見方(仮説)を,言語の類似性や,遺伝マーカーからの系統情報を用いて検証しているところにある.緻密な検証の結果,「農業の拡散は緯度に沿った方向の方が早く進んだ」というような(これもジャレド・ダイアモンドの著作も含めてすでに指摘されてきたことであるが)グローバルなパターンを,具体的な根拠を伴って示すことに成功している.

読破はなかなか骨が折れた.(かなり重い本書を満員電車で片手で持って読んだのは結構疲れた.)しかし,とても価値のある本を読むことができた.

ついでに.
この本の主題とは異なるが,言語の変化というものにこれまで関心をもっていなかったので,世界の様々な言語の類似性,「語族」の存在などについての話題はとても面白かった.確かに言語というのはそう簡単にかわるものではなく,そのため人間の移動分散過程を復元するよいマーカーになる,というのは納得がいく.

言語の保守性を説明するため本書中で引用されていた,Marianne Mithunによるアメリカ先住民族における言語の消失についての記述が印象的だった.
「・・・言語が消滅するとき,文化のもっとも奥深い側面も同様に消えてなくなるかもしれない.経験をまとめあげて概念化したり,考えを相互に関連づけたり,ほかのひとたちと交流するための基本的な手段がうしなわれるのである・・・伝統儀礼,演説,神話,伝説,さらにはユーモアまでが失われるのである.ことなる言語を話すときには,ことなることを言い,ことなる考え方さえするということに,話者はたいてい気がついている.言語が消失するということは,先祖代々受け継いできたものから民族が完全にきりはなされるということなのである.」

2008年8月8日金曜日

浮島湿原(8月)

8月5日は霞ヶ浦(浮島湿原),6日は鬼怒川とフィールド日が続いた.鬼怒川は砂礫河原で照り返しがきつく,夢のように暑かった.野外での活動時間は短かったが,かなり体力を消耗した.酷暑の日中でも,カワラバッタもシルビアシジミもツマグロキチョウも元気に飛び回っていた.カワラバッタは足をやけどしないのだろうか.

浮島湿原に行った5日は雨で,暑くなくて助かった.8月の浮島はヌマトラノオやイヌゴマが花盛り.




しかし,通(?)にはこれである.

(コイヌノハナヒゲ)

そして,極めつけはこれだ.

(カドハリイ:絶滅危惧IA類)

遠目には「ヨシ原」だが,ヨシの被度は低く,ヨシより背の低いカモノハシ,コイヌノハナヒゲが優占する.湿生植物の種多様性がとても高い.こんなヨシ原,他にはどこにあるのだろう.浮島湿原の大きな特徴は,現在でも屋根材にするための植物の刈り取りが行われている点,そして,ここ数年は残念ながら停止しているが,冬季の火入れが行われてきた点である.このような種組成の湿地,昔はもっと他の場所にもあったのだろうか.\

2008年8月4日月曜日

手賀沼の水草保全

(昨日いったん投稿したのに操作ミスで消してしまった.下書きがあった部分だけ再投稿.)

縁のある方々と印旛沼・手賀沼の水草の保全の現場を一日かけて見て回った.

かつて水質の悪化した湖沼の象徴のようにいわれたこれらの沼では,いったん地上植生から消失した多様な沈水植物や,ガシャモクやアサザなどの絶滅危惧種を,様々な方法で埋土種子から復活させ,多くの人々が連携して系統維持する取り組みが進められている.

今回特に印象に残ったのは,手賀沼の流入河川に沈水植物を移植している事例である.手賀沼の水質は改善されつつあるが,沈水植物が生育するには厳しい.そこで,コンクリート張りになっていた小規模な流入河川(農業排水路)を植物が生育しやすいように改修し(イワユル「多自然型」),手賀沼流域産の沈水植物を移植・定着させている.改修工事の費用は我孫子市が実施し,植物の植え付けやその後の管理は市民が行っているそうだ.水辺の植生の様子などをみても,かなり丁寧に管理されているようで,その効果も大きいのだろう.ガシャモクをはじめ,保全上重要な沈水植物が良好な状態で定着していた.

このような場所が複数あれば,手賀沼の環境改善が進んだときに有効な供給源にもなる.もしそれが実現しなくても,放置したら絶滅してしまうこれらの植物が,もともと生育していた流域内で個体群を維持しているというだけで価値があることだ.

このような地道で丁寧な活動がないと,もっとずっと多くの種が,とっくに日本から絶滅していただろう.本当に頭が下がる. (8月3日)

シコタンソウ(の写真)

友人のウェブページを久しぶりに見たらシコタンソウの写真が掲載されていた.「花弁の点々の色」への撮影者の感動が伝わる魅力的な写真だ.だいぶ以前になるが仙丈ケ岳(だったかな?)で同じことに感動したのを思い出した.

生き物は「かたち」や「暮らし方」で,見る人の気持ちをゾクッとさせるようなところが必ずある.知識があれば,タネの形,葉の形,発芽の性質など,いろんなところでこの感覚を味わうことができる.「環境問題」として生物多様性保全に関心をもち,うちの研究室に来てくれた学生さんにも,ぜひこのゾクゾクッとする感じを体験してもらいたいと思う.丁寧な観察の仕方を身につけることに加えて,進化についての正しい知識をもつことが大事なのではないかと思っている.