2008年7月30日水曜日

夏の谷津田

修士2年のIさんと、北浦流域の谷津の耕作放棄地や休耕地の調査。前回の調査では密度の濃いヨシ原になっている場所を中心に見たが、今回は、植生がまばらで明るい湿地になっている場所をいくつか見た。


ミズニラ(左)はかつて田んぼの雑草、今は絶滅危惧種。ミゾカクシ(右)は田んぼの畔を飾る可愛らしい花。

谷津の奥部は耕作されていない場合が多いが、一部で、無農薬・無化学肥料の稲作をしている場所もある。除草剤を使っていない田んぼは当然ながら「雑草」が豊かだ。今日もシャジクモがたくさん生えた田んぼを見せてもらっていたら、ちょうどその田んぼを作っている方とお会いすることができ、楽しい話をいろいろ聞いた。

コナギの繁茂はイネの生長にかなり影響するとのこと。駆除にだいぶ手間をかけておられた。コナギも美味しいですけどねー、とシャリシャリ食べて見せたら、驚かれた。コナギやミズアオイは水葱(なぎ)といって、昔から食用にされてきた植物だが、ご存じなかったようだ(おそらくもっと美味しいものに恵まれていたのだろう)。なぎを食べる話は宇治拾遺物語にもでてくるが(京都・錦通りの由来の話)、おそらくもっとずっと昔、湿地の植物を利用し始めた人々は、イネと同時にこのような水生植物を食べていたのではないだろうか。
コナギやミズアオイの味や歯ごたえは生育環境によってずいぶん変化する。面白いので、見かけるとつい口に運んでしまう。有機農業のおじさんの田んぼのコナギは、水が深いせいかやわらかく、ちょっと塩味がきいて(ミネラルが豊富?)、とてもおいしかった。


シャジクモの林を泳ぐマツモムシの腹側ショット。 防水のデジカメを田んぼの中に沈めて上向きに撮影。

途中で激しい雨にも降られ蒸し暑い一日だったが、夏の谷津田を楽しんだ。夕方までいてホタルも楽しみたいところだっけど、夜仕事が・・・

2008年7月26日土曜日

茨城県博,クマ展

家族と茨城県立自然博物館に行ってきた.博物館としては「書き入れ時」のこの時期の特別展として,恐竜でも昆虫でもなく「森のアンブレラ種,熊展」をもってきたあたり,渋いなぁと思いつつ.

すばらしかったのは世界のクマの剥製標本の展示.10種くらいあったかな.とても綺麗な標本で,しかもショウウインドウ型に並んでいるのではなく,1頭ずつ独立したケースに入っているから,周り中から覗き込んで観察できる.これがよい.種類によって足の太さや長さのバランス,ツメの長さ,口の形などがずいぶん違う.主なエサの説明などをみながら,じっくり標本を眺めたのは実に楽しかった.パンダの「ランラン」の標本も.子供の頃,人ごみ越しに一瞬だけ見たランランをこんな間近でじっくり見られるなんて!

綺麗な標本を見せる,という点で,茨城県博はレベルが高いと思う.クマが食べる植物の腊葉標本もとても美しく,見入ってしまった.展示内容に注文をつけようと思えば,「アンブレラ種」というテーマの掘り下げが足らないんじゃないかとか,思いつくことはある.しかし,難しいことはともかく,綺麗で楽しい展示を通して,クマという大きくて美しい動物の存在を見た人の記憶に刻むということでは成功していると思った.

クマが新聞やテレビニュースに登場するのは,人間に危害を与えたときがほとんどだ.都市生活者にとって,「クマ」に対する認識は,遠いところにいる何やら恐ろしい存在としての認識と,可愛らしくデフォルメされたキャラクターとしての認識しかなくなって,動物としてのリアルな存在という認識が空白になってしまうのではないか.「モノではなくイキモノへの認識」とでもいうのか,自分との類似点・相違点を通して他者として認識するような捉え方ができなくなってしまうのでは,という懸念.

クマを人の命や農業を脅かす「有害鳥獣」という視点でしか見られなくなったら,それはおそろしいことだと思う.日本でのツキノワグマの個体数も十分に把握されていないし,生態系における役割もほんの一部しか分かっていないにも関わらず,「大量出没」の年だった2006年など,全国で4,200頭のツキノワグマが捕殺されている.このような捕獲は日本の個体群の存続性を脅かしかねない(→日本クマネットワーク).この現実を問題と感じることができるかどうか.

まずはかっこいいクマ標本をじっくり見て,リアルな存在としてクマを意識できるようになることは大事だと思う.「恐れる」だけでなく「畏れる」気持ちがあると,付き合い方も変わるのではないか.

ぬいぐるみの「くまちゃん」大好きの2歳の息子は,リアルなクマをどう理解したんだろう.気になるなぁ.

2008年7月24日木曜日

農耕起源の人類史(ベルウッド),前半

メーリングリストでの案内をみて早速入手した.

地球規模での農耕の起源と拡散についての研究書である.ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」「文明崩壊」が地球規模での文明一般の拡散史の解説だとすれば,その農耕版といった内容.

丁寧に事実を引用しながら解説されており,科学的な安心感がある.着実に論理を固めながら話題が展開する重厚な構成だ.しかしその分,私のような専門外の読者にとっては難解な場所や(読み物としては)退屈な表現も多い.読み始めてから約一週間たったが,まだ前半しか読み終えていない(通勤電車でしか読んでないけど).それでも,いつくか勉強になった.

○農耕民が狩猟採集民よりも人口過密になれる原因
・食料が集約的に生産できること.
・出産間隔が短くなること.(狩猟採集民は,広い場所で食料を採集している間,子供を運ばなければならいこと,周期的に脂肪摂取が低レベルになること,やわらかい理由食がないために長期間授乳する必要があることが原因)

○農耕の開始が可能になった条件
・意図的な植え付け作業と栽培の季節性の存在(野生植物から栽培植物を隔離することに寄与する条件)
・気候が温暖・湿潤で安定していること(完新世における温暖化(11,500年前に発生)が重要)

○農耕が開始された理由
諸説あるが,豊かさという背景に注目するものと,ストレスに注目するものがある.ストレスとしては,社会的なストレス(部族間の競争など),人口によるストレス(温暖化に伴い食料以外の要因による人口増加が先行しそれをまかなう必要性が発生).

○世界の農耕の起源地
・西南アジア:「肥沃な三日月地帯」(ヨルダン・シリア・トルコ・イラク・イラン)→野生穀類と豆類をともなう疎林と草原で発達した農業→ヨーロッパ,エジプトに拡大
・アフリカ:北部において西南アジアから農業が拡散,在来の牧畜民と融合,サハラの乾燥化に伴って牧畜民が農業技術を携えて南下.
・東アジア:長江の中下流域に稲作の起源.野生の雑穀やコメを栽培河岸,家畜化されたブタ,イヌ,ニワトリを飼育する形態.日本の農業はそこから拡散したものだが,中国国内での農業の伝播に比べて,受け入れに時間がかかったとされる.それは,日本は海産物,堅果類,根茎類の採取が非常にうまくいっていたため,副次的な農業はあったものの,それほど依存度は高くなかったからと解釈されている.
・東南アジア,オセアニア:(・・・複雑すぎてよくわからなかった・・・)台湾とか,いくつか重要な起源地があるらしい.
・南北アメリカ大陸:トウモロコシを除いて生産性の高い穀類がなかたこと,食用になるような動物の家畜化があまりおこらなかったことから,狩猟採集から農耕への以降が旧大陸ほど明瞭ではない.また農業の起源も複数あるらしく,複雑.

8章まで読んだ.9章は「語族は人類の先史に対してどのような意味をもつか」だって.聞いたことのない話題で,楽しみだ.

2008年7月16日水曜日

浮島湿原7月



今年は月1-2回の頻度で霞ヶ浦湖岸の浮島湿原(妙岐の鼻)に通っている。ヨシ原の地面に這いつくばって植物の実生にマーキングし、生死を追跡する。昨日は7月の調査を終えてきた。

浮島湿原は霞ヶ浦最大、関東平野でも有数の規模を誇るヨシ原で、全国・県レベルの絶滅危惧植物が20種近く生育する生物多様性のホットスポットである。またヨシ-カモノハシ群落という独特の植生が残る。屋根材としての利用のためにカモノハシやヨシの刈取りが現在でも行われており、さらに、ここ数年は停止されているものの、火入れも行われている。これらの伝統的な植生利用・管理と植物の多様性の関係を研究している。


クサレダマ。後背湿地のヨシ原の中で咲く。全国的に見れば珍しい種ではないが、関東平野で見られる場所は結構限られる。

ハンゲショウ。浮島湿原では自然堤防の後背湿地側の縁に特に多く出現する。

昆虫もいろいろ。

オオルリハムシ。シロネを特異的に食べるという、とってもきれいな甲虫。

この湿原の植物多様性のカギであると睨んでいるのが、カモノハシという植物である。昨日は開花が始まっていた。

二又に分かれる穂を鴨の嘴に見立てた和名だ。この嘴を開いてみたら、ほとんどの穂の中にアザミウマがいた。風媒花につくアザミウマって珍しいんじゃないかな。

「ヨシ原」にもいろいろなタイプがあるが「攪乱型のヨシ原」の本来のフロラがまだここには残っている、と思う。
本当に、本当に大切な場所。

2008年7月14日月曜日

田か畑か

通勤時間をつかって、関東平野の湿地と人の歴史についての読書を続けている。農業・治水・人文地理など、異なる視点から「関東平野」に関する本を読むことで、自分で生態学のフィールドとしている地域の背景を立体的に理解しようというのが狙いだ。

これまでの読書で
・主流路が不明瞭で、分流・合流を繰り返しながら低平地のヨシ原を流れる河川。頻繁な洪水とそれで作られる肥沃な土地。
・主な集落や中世の城・寺社は自然堤防や台地の縁に。
・低湿地は、排水の悪さと洪水の影響とで水田化は困難。谷津の奥部から(湿田の)耕作がはじまり、徐々に河川に近い低湿地に拡大された。
というイメージがつくられてきた。

さて、これまで農地=水田と思い込んでしまっていたが、「地文学事始 日本人はどのように国土をつくったか」を読んでそんな単純ではないことがわかった。

第九章「古河公方の転と地、あるいは乱の地文学(中村良夫)」の図5(p.220)には、古河市史からの引用として、江戸期から1980年代にかけての古河における農地の内訳の変遷が示されている。これによると、江戸期には、田が166.7町歩に対して畑は752.6町歩と約4.5倍多かった。畑>田の関係は昭和まで続き、両者の面積がほぼ同じになるのは1970年ごろ。1980年代にようやく逆転している。また、表1(p.221)には、江戸後期における谷中郷(渡良瀬遊水地に没した旧谷中村)における農地の内訳がしめされており、これによると田は105町歩に対して畑は544町歩と、約5倍である。関東の低湿地の中でも特に「水の領分」に近い村でもこのバランス。「水が多い」=「水田地帯」という思い込みはしないほうが良さそうだ。

中村氏は次のように述べている(p.221)。
「戦後の食糧不足の時は、古河のような田園に囲まれた小都市においても白米のご飯はなかなか庶民の口に入らなかった。それを実感している者として、中世においても米はとても一般の主食にはなりえなかったとする主張はもっともに聞こえる。大麦、小麦、大豆、小豆、ヒエ、アワ、ソバ、それにいくらかの根菜類と、蔬菜の畑は、荒野を切り開いていった開発領主と地侍あるいは農民たちの見慣れた農村の景観だったのではないか、と思う。」

しかし、この変化は単純に「新田開発に伴って水田が増え、雑穀から米中心に変化した」と考えてしまっては、それも誤りだと思う。図5のデータをよく見ると、畑>田から畑<田への逆転は、田の増加以上に、畑の減少によって生じている。
(古河の農地内訳)
明治初期(1880頃):畑=773.6ha、田=165.4ha
昭和45年(1970年):畑=350.1ha、田=324.2ha

台地の上や自然堤防上に広がっていた畑が、住宅地などに変化してきたということなのだろうか。このくらいの変化であれば昔と今の地形図を並べるだけでわかりそうだ。(でも今日はここまで)

2008年7月9日水曜日

洪水のにおい

自分は床下・床上浸水のような水害は経験したことがない。しかし故郷は利根川下流域の氾濫源。家がある場所はおそらく自然堤防と思われる微高地上とはいえ、洪水被害未経験なのは、堤防に守られていたからだ。

洪水の時の話は母親から何度か聞かされた。よく聞かされたのが「便所があふれるのがいやだった」ということだ。その頃のトイレは汲み取り式だし畑に肥溜めがあるから、洪水の時にはそれらから溢れて流れてくる。伝染病にもつながる、人間が本能的に忌避するニオイがしたことだろう。

河川の出水への生物の適応。生物多様性の維持における氾濫の役割。これらは私にとって本当に面白いテーマだが、こういった洪水と結びつく話題について、社会に向けて何らかの提言や情報発信をするときは、「洪水のニオイ」のことは頭の片隅にでも常に置いておきたいと思う。

今日は午前は鬼怒川の氾濫原(扇状地)の自然再生の打ち合わせ、午後は霞ヶ浦の氾濫原(湖岸植生)のモニタリングの打ち合わせをした。一息つきながら、そんなことを考えた。

2008年7月8日火曜日

ハマオモト

我が家のハマオモト(ハマユウ)が咲いた。鉢植えで室内においているから、とてもよい香りが漂ってくる。この香りで、夕方に活動するスズメガ類を呼び寄せるという。開花も夕方に始まる。


このハマオモト、妻のタネ・コレクションにあったものが「保管していたら発芽しちゃったから」育て始めたそうだ。放任主義の我が家にあってたくましく育ち、発芽から14年目にして、今夜ついに開花。

2008年7月7日月曜日

反復説再来?

河川や湖岸の水辺の湿生植物やアサザのような浮葉植物は、実生期には冠水耐性が極めて弱く、「湿っているけれども冠水しない」時期・場所で発芽する。成長とともに冠水耐性を獲得し、水草らしくなる。

先々週、マイコループさんのゼミでこの話をしたとき、参加した方から意外だと言われた。フィールドで植物をみていると当たり前になっていたが、改めて考えてみて、次のことに気づいた。

「生活史ステージによって異なるハビタットを利用する生物において、生育初期段階に利用するハビタットは、その生物の系統的祖先のハビタットである。」という傾向があるんじゃないかな。

あてはまる例
・アサザは陸上で発芽し、成長とともに地下茎で水中に入っていく。被子植物だから祖先種は陸上植物である。
・両生類の多くは幼生期を水中で過ごし、成熟すると陸に上がる。両生類の祖先(魚類)は水中の生物である。
・サケは川で生まれ、海に回遊する。サケの祖先は川の魚である。
・ウナギは海で生まれ、川に回遊する。ウナギの祖先は海の魚である。

トンボの祖先なんかはどうなんだろう。

これって「○○の法則」みたいので既にあるのだろうか。

研究室のKくんに話してみたら「個体発生は系統発生を繰り返すってやつ?」とのこと。ううん、なるほど。トンボ研究者のKくんはこの法則には懐疑的なようだった。

妻に話したら最初は感心してくれたが、ついでに「鳥の祖先は爬虫類だからヒナは陸上生活だ」と言ったら、バカじゃないの、といわれた。新法則!?を確立するにはもう少し洗練が必要そうだ。「異なるハビタットを利用する」という部分をもう少し精密にする必要があるだろう。

2008年7月4日金曜日

利根川のシジミ

子供のころ(たしか小学校に入る前から低学年ごろ)、母親や伯母と一緒によく利根川にシジミとりに行った。ドロの中から足や手で探り当てて、なるべく大粒をバケツにとる。晩の味噌汁の具にする。
ある日、シジミを取っていると漁師に怒鳴られたことがあった。どんな言葉で叱られたか覚えてはいないが、ただ、とても怖かった。
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鈴木久仁直著利根の変遷と水郷の人々 (ふるさと文庫 (123))を読んで、このころのシジミ漁の背景が少しわかった。

私が生まれた1971年は利根川の河口堰が完成した年である。その直前の1960年代には、シジミは利根川における漁獲のおよそ9割(重量比、千葉県の場合)を占めていた。いうまでもなくシジミ漁が盛んなのは汽水域である。利根川下流域は勾配がゆるく、佐原市のあたりまで汽水が入り込んでいた。佐原から銚子にかけての利根川一帯はシジミ漁が盛んな地域だった。特に私の故郷である笹川河岸付近のシジミは「笹川蜆」というブランド品だったという。

河口堰により塩水の溯上が止められると漁業に支障がでるのは間違いない。河口堰が建設された理由は以下の2つ。
-農業用水への塩害防止。特に笹川に取水口をもつ大利根用水への塩水流入の抑制は地域にとって重要な課題だった。
-新規利水の開発。ただし、この利水は地元よりも東京にとっての課題だった。実際、河口堰によって生まれた利水権の62%は東京都が持っており、千葉県は32%、茨城県は0だった。

漁業者は河口堰計画反対の意見を提出した。しかしそれが聞き入られることはなく、異例に安い補償金の支払いで決着したという。その原因を、鈴木氏は次のように分析している。
-地元は半農半漁であり、塩害防止を理由に出されると反対しにくい事情があった。
-「河口堰による被害は少ない」という学識経験者のまとめた調査報告が、漁民へ押し付けられた。
-当初は河口堰建設反対のために結成され、次第に補償交渉の対応を担った「利根川河口堰漁業対策協議会」では、千葉・茨城の利根川下流の漁民ではなく、栃木・埼玉・群馬の上流の漁民が主導権を握った。生活の漁業への依存度が高いのはシジミ・サケ・ウナギを主要な魚種とする下流の漁民であり、アユなどを主要な魚種とする上流の漁民は遊漁者的というように、そもそも漁業の位置づけに大きな違いがあり、下流漁民の実情を適切に反映した交渉にならなかった。

シジミの死滅は、河口堰が竣工した年(1971年)に早速現れ、それ以降、夏になるとシジミの大量死が繰り返された。「学識経験者」の予測をはるかに上回る被害が出た。漁民は河口堰の開放とシジミ被害の補償を要求したが、聞き入れられることはなかった。一方、漁民は種シジミの放流を繰り返した。種シジミの放流は、河口堰の下流側に養殖場を決めて行われた。それでも、短期的に漁獲が回復することはあっても、すぐに低迷した。

1975年には河口堰開放を求めるデモが行われた。私が漁師さんにどなられたのは、この頃か数年後くらいだろう。

私らがシジミを採る場所は、年々下流に移動した。笹川では採れなくなって河口堰の下流の銚子まで行くことも多かった。種シジミ撒いてた近くだったのだろう。知ってたのかな?うちの親は。

その後、1978年に千葉県・水資源開発公団・関係する漁協の間の交渉が再開された。1979年にはシジミの漁業権を全て買い取る合意がなされ、総額40億円の補償が支払われた。これで、シジミの漁業権は利根川から消失した。

2008年7月3日木曜日

母子島遊水地

何日か前に「氾濫原の水田は遊水地に」なんて書いたが、このような場所はすでにあるようだ。

アーカイブス利根川(宮村忠監修)に紹介されている「母子島(はこじま)遊水地」は、そのような場所らしい。

P.11「母子島遊水地は、洪水によって小貝川が増水したとき越流堤から増水した水を遊水地に導いて溜め込み、洪水の危険が去った時点で小貝川に戻してやることにより、下流への推量を減じて小貝川全体の安全性を高めます。遊水地内は、・・・・通常は今までどおりのうちとして利用できます。集団移転した方々など田畑の所有者に対しては「地役権補償」を行って、洪水時に水をためることを認めていただいています。」

知らなかった。農地は田んぼかな。どんな草が生えるんだろう。
稲刈り後の季節に一度行ってみよう。稲刈りから少したった田んぼでは、耕起が行われない限り、水田雑草をほぼ一通り見ることができる。

2008年7月1日火曜日

谷津葦原

耕作放棄された谷津田の植生を研究している大学院生、Iさんと調査に行った。フィールドは茨城県鹿嶋市、北浦の東側の水源域だ。

圃場整備の進行、減反、農家の高齢化等々により、もっとも初期から稲作が行われていた場所である「谷津の奥部」ではいま耕作放棄が進んでいる。耕作放棄地の拡大は農政の中で問題視され、土地の活用についての検討が行われている。しかし、特別な「活用」を考えなくても、条件によってはけっこういい湿地になっているんじゃないの?湿地が減少した現在ではむしろ貴重な場所なんじゃないの?というのがこの研究の出発点だ。

長い谷底に果てしなく広がる葦原、ここもかつては水田だった。水田耕作が始まる以前の太古もかくや、と思わせるような景観だ。


耕作という人為から解き放たれた土地は、その場所の条件や履歴によっては、様々な湿生植物から構成される湿地へと戻っていく。生態系のレジリエンスの一例である。

湿地に戻れる条件は?その植生はどんな要因で決まるのか?Iさんのおかげで、かなりのところまでわかってきた。