2008年12月15日月曜日

しごと

修士論文の手助け、学生さんの新しい実験のスタートアップ、今週の授業の準備、編集を担当している論文のハンドリング、月末締切の本の原稿執筆、卒業生の論文の修正と再投稿、共同研究の分担作業、自分の論文の執筆。いま目の前にある仕事の優先順位はこんな感じ。最後の二つを除いて今週中になんとか目処を立てたいのだが、時間が足りないなぁ。

忙しくないといえば嘘になるけれど、でも、今の立場は恵まれていると思う。組織運営のための「雑用」はとっても少ないし、授業や実習も日本の一般の大学教員に比べて少ない。うちの大学は学生に対して教員が多いし、教員をバックアップする体制も、充実している方なのだろう。別の大学で働いている友人と比べても、自分の裁量で仕事を決められる範囲が大きいと思う。

贅沢な悩みをいえば、今の立場が身の丈にあっていないように感じることか。
ちょっと大きな殻に入ってしまったヤドカリのような気持ち。

2008年12月9日火曜日

12月のフィールド

先週の月曜日は霞ヶ浦の浮島湿原に行き、屋根材のための萱を収穫する地元の方たちとの打ち合わせをした。
浮島ではヨシではなくカモノハシやチゴザサが萱として刈り取られる。これらの植物は「シマガヤ」と呼ばれ、ヨシやススキよりもずっと高級なのだそうだ。実際に文化財に指定されている古民家や神社の屋根などに使われている。

浮島湿原の中でも「シマガヤ」は局在して分布している。地元の方々によると、昔はもっと広い範囲に生えていたのが、最近ではずっと少なくなってしまったそうだ。地元の方は、「シマガヤ」減少の原因は、霞ヶ浦の水位が高くなったことと、野焼きを中止したことにあると考えている。また水位が高いと刈った萱が濡れてしまうので、とても作業がやりにくいとのこと。

霞ヶ浦の水位は、今年も「実験」として冬場に高く維持されている。これが植生帯の侵食や植生の種多様性の低下を招いている可能性がある。冬場に高められた水位は、水の需要が高まる4・5月ごろには下げてしまうのだから、この高い水位は利水のために「本当に必要で」上げているわけではなく、不合理なものに思える。とはいえ、水位を直接管理している行政に一面的な責任があるものではない。利水権者の判断が、現実の問題に対応したものになっていないことに問題の根幹があるようだ。計画をたてた時点では認識されていなかった問題がわかってきたのだから、柔軟に方針を変える方が、広く受け入れられる判断だと思うのだが。

この日は、来年度から浮島湿原で研究をする予定のW君といっしょに行き、挨拶をさせてもらった。「シマガヤ」が分布している場所は植物の多様性が極端に高い。その理由として、刈り取りや野焼きなどの管理の重要性を示す研究を計画している。水位の上昇管理や野焼きの中止の背景には「研究者」「生物学者」の姿がみえるから、地元の方からは最初は不信感をもたれていたようにも感じたが、丁寧に説明をしたところシマガヤの生育に必要な条件を明らかにする研究でもあることを理解していただき、今後の協力を約束してもらえた。研究開始までにはまだいくつかの機関・主体と相談する必要があるが、まずは地元の了承が得られて一安心。

土曜日は久々の山行で群馬へ。その山にしかない絶滅危惧植物があり、私はその保全のための研究と実践をはじめて12年になる。まだまだ困難は多いが、地元の強力な協力者のおかげで、前年までの教訓を活かして、毎年少しずつ進んだ活動をしているので楽しさがある。ただ現実は厳しい。林道の工事がひたひたと接近している。林業の振興を制限している要因は林道の不足ではないはずなのに。

水位改変と林道工事。「自然再生」が謳われる21世紀になっても、20世紀にたてられた計画で、自然の喪失が進んでいる。

2008年11月22日土曜日

イガイの意外な暮らし

信州大でセミナーがあり山梨大のM先生の深海の生物の身もだえするほど面白かった。

深海の熱水噴出孔や冷水湧出帯に生息するシンカイヒバリガイは、1500kmも離れた沖縄と相模湾の間でも、高い頻度で遺伝子流動があるらしい。また海底にクジラの骨が沈むと、それにほぼ特異的なイガイがつき始めるという。こいつらの分布には分散力はあまり制限要因になっておらず、生息環境さえ整えば「勝手に生えて」くる、カビみたいな生き物なのかな、と思った。でも海流などの影響が強いはずなので、分散も完全に自由ではない。分散様式について質問したが、貝の卵や幼生の分散を調べるのはとても難しく、まだどのような深さの水中を流れているのかもわからないし、海底付近の海流もわかっていないことが多いそうだ。海水をガバッと汲んできて遺伝解析するような方法がそのうちでてくるかもしれない。

イガイの仲間は淡水や岩礁から深海まで、とんでもなく幅広い環境に適応している。深海は太古から環境が変わらなそうだから、深海の方が祖先的なものがいるのかな?と考えていたら、分子系統の結果はどうも逆らしく、浅海から深海に進化しながら分布を拡大したという。それは、白亜紀後期の温暖期に海洋が成層し、海底付近が無酸素状態になったことがあり、いったん深海性の貝類などは絶滅したことがあることが関係しているらしいとのことだった。なるほど、目から鱗。ネットで調べてみたら白亜紀OAE(Ocean Anoxic Event)というらしい。

タネとり

昨日は鬼怒川のフィールドに行き、地元の方・市の職員の方との打ち合わせをしてから皆でカワラノギクのタネとり。

いったんは絶滅するかと思われた鬼怒川のカワラノギクだが、外来植物(シナダレスズメガヤ)の抜き取り、残存していた個体から採取した種子の播種によって、数は回復しつつある。シードバンクをほとんど作らないカワラノギクは、いつもどこかで新しい種子が生産されていないと地域から絶滅してしまう。しかも、洪水後につくられる明るい礫河原が生育適地だから、ずっと同じ場所にとどまることもできない。こんな植物が存続してきたということは、洪水による裸地形成が、ほんとうに頻繁におきてきたのだろう。

昼に作業を終え、新幹線を乗り継いで松本へ。

2008年11月20日木曜日

印旛沼の水位低下実験

印旛沼の湖岸の一部で千葉県が行った実験のことが新聞記事になった.

http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008111701000326.html

シードバンクのポテンシャルの高さは霞ヶ浦でも確認されたが,「湖内で」「水位低下によって」再生できたところに新しさがある.

印旛沼の現在の湖岸はほぼ全域が干拓堤なので,霞ヶ浦でおこなったような「堤防の湖側に盛土をして植生を再生する」という方法はあまり薦められない.湖を今まで以上に埋め立てることになるし,工法的にもいろいろと無理をしなければいけなくなるからだ.それよりも本質的なのは,水位と水質の条件を改善して現在の湖内に沈水植物帯を復活させることと,干拓してできた陸地を湿地生物の生息に適した環境に改善することだ.今回記事になった実験は,前者の実現に繋がるものである.
来年は後者に関係した実験もはじまる.

2008年11月18日火曜日

稲刈り後の水田雑草

今日は修士のIさんの調査を手伝って,田んぼの植物を見て歩いた.

稲刈りの後から本格的な冬に入るまで,水田ではたくさんの「雑草」をみることができる.今日の調査でも,多いところでは一枚の田んぼで40から50種が記録された.それらには,かつては氾濫原に生育していたと考えられる攪乱依存種が多く,現在では絶滅危惧種になっているものも多い.

ミズニラとイチョウウキゴケ

2008年11月11日火曜日

豊岡

一昨日までの3日間,豊岡市に出張した.来年度から新しく始める学生実習の下見と打ち合わせが目的である.

コウノトリの野生復帰で有名な豊岡だが,全国各地と同様に近年シカの増加が問題視されているという面もある.たしかに林床は「スッキリ」してしまっているところが多い.農業被害で,地元の方には本当に頭のいたいことだろう.一方,シカの恩恵を受ける植物もいるかもしれない.光をめぐる競争に強い大型の草本が食べられ,同時に土壌が踏み荒らされることで,攪乱依存性の植物のハビタットがつくられるという面もあるのではないか.

シカの個体数管理は必要なのかもしれないが,その場合でも,シカの生態系機能をよく把握した上でやらないと,思わぬ問題を引き起こすだろう.人間の利用のための植物の刈り取り・持ち出しが減少し,物理的な攪乱も減少しがちな里地・里山では,シカによる捕食や踏み付けがけっこう役に立っている場面もあるかも.

五大湖のモニタリング

分担執筆する本の原稿を提出した.
この執筆のために,湖沼の生態系評価指標について少しまとめて勉強した.

生態系の状態をモニタリングするための新しい指標やその妥当性の研究のほとんどは,北米五大湖をフィールドとして行われている.五大湖ではカナダとアメリカの政府により総合的なモニタリングが行われており,その成果は2年ごとに開かれるコンフェレンスとその1年後に発行されるレポートで公開される.レポートは http://www.epa.gov/solec/ から入手できる.これがとーっても充実していて,非常に読み応えがある.

2007年に発行されたレポートでは67の指標を使って湖の環境の現状が解説されている.その中には水質や周辺の開発の状態だけでなく,環境変化に敏感なカエルの個体群サイズの変化とか,侵略的外来植物であるエゾミソハギの動向など,多くの生物指標が含まれる.

沿岸の湿地をことのほか重視している点も,五大湖は先進的だ.アメリカ・カナダの2国にまたがる機関であるThe Great Lakes Commisionが公表した沿岸湿地のモニタリングプラン(http://www.glc.org/wetlands/final-report.html)では,多様な分類群の生物についての指標を,300ページ近い資料で解説している.すごい迫力.

内容のレベルの高さも行政の力の入れ方もたいしたものだが,特に感心するのは,研究と社会のリンクの強さである.五大湖のモニタリングは社会的要請によるものだが,その実施と連動して,指標の開発や妥当性の検討に関する研究が活発化し,Journal of the Great Lakes Researchをはじめとする学術雑誌に公表される.その研究成果はその後のモニタリングに速やかに反映されているようだ.

欧米の保全生物学の論文や研究批評の文章を読んでいると,「evidence based conservation」という表現によく出会う.保全に関する(行政の)意思決定について,科学的根拠を重視しているということだろう.これと対になるニュアンスでpolicy driven conservationという表現が使われているのも見たことがある.「このような研究成果に基づいて判断しました」という姿勢と,「このように決められていたからその通りにしました」という姿勢の違いみたいな感じか.生態系管理のように確実性が低いことを進めるとき,前者の方が理にかなっている.

2008年10月19日日曜日

観察会・参加型調査

今日は霞ヶ浦の湖岸植生再生事業地でフロラ調査をした。
2002年に国土交通省による工事が終了し、それ以降、有志の市民の方々といっしょに植生調査を続けてきた場所だ。市民参加型調査をはじめて5年になるが、ほぼ皆勤賞で参加してくださっている方もいれば、今年初めて参加された方も。

霞ヶ浦の自然・水辺の植物・自然再生など、いくつかのちょっと異なる視点から興味をもってくれた方々と自由に話をしながら植物を見て回る。その後、それぞれのノートを統合してデータを整理する。単純な作業だが、植物好き・生き物好きの方々といっしょに歩きながら、またお昼を食べながら交わすちょっとした会話がとても楽しく、そこをフィールドに研究をする上での励みにもなる。今年は2日ある調査のうちの1日は、国土交通省の課長さんも参加してくれた。参加した方々も、普段はきけない話が聞けたのではないだろうか。

来年からは、再生された湖岸だけでなく霞ヶ浦やその周辺に残された良い湿地を見に行くような観察会・調査も考えたい。自分がそのときに特に面白いと感じている場所・テーマの観察会をするのは、異なる視点からの意見・反応が聞けてとてもありがたい。また、参加してくれた方にもホットな話題がきけるというメリットがあるのではないかと思っている。

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植物学会での講演、学生や自分の研究のための野外調査、早稲田大での後期講義開始、筑波実験植物園での講演、北海道への出張、霞ヶ浦の自然再生事業地での市民参加型植生調査と、前のめりになって予定をこなすような慌しい状態が、ようやく終息した。

今月後半は書き物重視で行こう。締め切りのあるもの、書きかけのものを一通り片付けて、来月は植物学会での議論が記憶にのこっているうちにレッドリスト評価についての検討をいっきにまとめて、関係者にみてもらえるものを作りたい。

2008年9月23日火曜日

フィールド三昧

9月15日以降、小貝川、一関、霞ヶ浦(浮島湿原)2連発、学会(福岡)、鹿嶋の谷津田と、フィールド続き。その合間に25日の植物学会での発表の準備をしなければならなかったので、ちょいとハードな1週間だった。

この季節、湿地のフィールドではシロバナサクラタデの花をみることができる。多くの図鑑に「雌雄異株」と書かれているシロバナサクラタデだが、そうではなくて異型花柱性植物ですよ、というのが私の卒論から修士までの研究で示したことの一つだった。このことに学部三年の秋に気づいたのが、この浮島湿原である。大発見をした気分になって色々な先生を訪ねて話した。そのときに一番「面白がってくれた」先生の研究室を卒業研究に選び、そのまま大学院に進み、いったん外部の研究所に就職したもののまた出戻ってその先生の助教をしている。浮島湿原のシロバナサクラタデが無かったら、研究者になっていなかったかも。

今年も浮島のシロバナサクラタデが咲いた。


花被の上に葯が突出しているのが「短花柱型」。花柱は花被の中に隠れているが、長花柱型の花粉が受粉すると種子ができる。


花被の上に柱頭が突出しているのが「長花柱型」。葯は花被の中に隠れている。長花柱型は短花柱型からの花粉が受粉すると種子ができる。

2008年9月6日土曜日

ヨシ原の攪乱

今年の学部生対象の学生実習は、湿地の植物の多様性維持に対する攪乱の重要性、をテーマにしている。

水辺のヨシ原やオギ原は攪乱(植生を破壊する物理的作用)が無い限り種の多様性はそれほど高くない。ヨシやオギは競争力が強く、多くの種の侵入を許さないからだ。しかし攪乱によって植生にギャップ(小規模な裸地)が形成されると、その環境を利用して様々な植物が生育するようになる。
ギャップ形成の重要性は森林でよく強調されるが、水辺のヨシ原でも同様だ。実習では、ギャップを検出して発芽する植物の種子の特性を実験で調べるとともに、野外でギャップとそれ以外の場所の温度や光条件を比較する。

水辺植生のギャップはどのような要因で形成されるのだろうか。
流速の早い河川の上・中流部や大きな波の立つ湖沼の沿岸では、水そのものの営力でギャップが形成される。しかし流速の遅い河川の下流部でも、植生ギャップや、時には広い裸地が形成される。その主要な原因としては次のことが考えられる。
・長期間冠水することによる植物の枯死
・水によって運ばれてきたリターによる攪乱
・哺乳類による攪乱

このうち、哺乳類による攪乱には、人間によるものと人間以外の動物によるものがある。人間は火を使うため、ときに大規模な裸地形成を引き起こす。「湿地の火入れ」は大変に長い歴史をもつ。長江下流域の8000年前の水田遺跡から火入れの証拠が見つかっている。ハンノキ林・ヤナギ林への遷移をくいとめ、イネの優占度を高める管理として火が使われていたと解釈されている。もちろん火入れはそれ以前の時代から行われていただろう。狩猟の際に獲物を捕らえやすくしたり、おいしい果実をつける植物を増やすことにも役立つから、「狩猟・採集」の比重が高かった時代から盛んだったはずだ。
 人間以外の哺乳類にも水辺を生活場所とするものは多い。私がフィールドにしている関東平野のヨシ原にも、かつてはシカがたくさん生息していたようだ。常陸国風土記に次のような記述がある。
 「諺にいわく、葦原の鹿は、その味はひくされるごとく、くらふに山のししに異なり。二つの国の大猟も、絶え尽くすべくもなし。」
 二つの国とは常陸と下総である。この地域の葦原には、たくさん狩猟しても絶えることがないくらい、たくさん生息していたということだろう。シカのような大きな動物は歩き回るだけでもギャップ形成しそうだし、草もたくさん食べる。それから、イノシシのヌタ浴びなんて湿地の攪乱そのものだ。

 人による攪乱は農業・生活様式の変化で大幅に減少した。哺乳類も減った。治水事業が進んだために長期間水につかる場所も減った。これらは、攪乱に依存した特性をもつ植物の多くが絶滅危惧種になった主な原因となっている。

さて、うまく整理して学生さんに伝えられると良いのだが。

2008年8月31日日曜日

洪水の受容

 週末に小貝川河畔で実施を予定していた学生実習を延期した.実習を予定していた河川敷は完全に冠水し,近寄ることさえ危険だったからだ.
 今年は台風は一つも来ないのに,大雨は多い.今回の雨も停滞した前線によるものだが,全国で多くの家屋が浸水した.私が住む我孫子市でも観測史上最大の時間降雨量が記録され,床上浸水が発生した.


増水した桜川

 折しも,東大の沖大幹先生の「治水対策・あふれることを前提に」という意見が28日の朝日新聞のOpinion欄に掲載された直後だった.沖先生の意見は国土交通省による「気候変動に適応した治水対策検討小委員会」の委員という立場から書かれたものだが,表題の通り「あふれること」を想定した社会をつくる必要性が述べられている.沖先生のOpinionの要点:
・ダムと堤防で水害を完全に防ぐというのは現実的ではない.利根川では200年に1度の確率で生じる規模の大洪水もあふれさせないようにすることを目標にした整備計画があるが,実際には30年に1度の確率の中洪水を防ぐ程度の工事さえ,約6割しか完了していない.しかも気候変動により,大洪水が生じる確率は高まることが予測されている.
・今後は水があふれ出ることを前提とした総合的な「治水」に転換する必要がある.その際には,大洪水の際には氾濫を許容する地域の設定の仕方や補償の方法,リスクの高い土地の開発の制限の方法などが課題になる.しかし,人口が減少に転じる今後こそ,この方向に転換するチャンスである.
・洪水のおそれがあるときは仕事を休み,住民総出で治水の作業にあたる社会も考えるべきである.

 とても説得力のある意見だと思う.特に最後の部分.大雨の晩,本来土嚢を積んで町や家を守るべき「お父さん」たちが出勤したきり東京に取り残されているようでは心許ない.
 洪水を受容する社会への転換は,インフラの整備だけでなく,暮らし方・考え方の転換も必要だ.しかし,合理的に考えれば本当に必要な転換だと思う.

ところで,
「洪水をあふれさせる場所」は,利用するなら田んぼが最適だろう.冠水したら収量は減るが,洪水から町を守る役割を果たしたのだから,その分くらいは補償しても納得がいく.さらに,そのような「氾濫原田んぼ」での除草剤や殺虫剤を使わない稲作を推奨したり,休耕する田んぼを選ぶ際に氾濫原の田んぼを優先させるといった工夫をすれば,湿地の生物の保全には絶大な効果があると思う.

 氾濫原の生物にとって本来洪水は移動・分散,漂着のチャンスである.植物の種子も洪水の際に大量に輸送される.しかし,コンクリートで固められた河川ではそのような種子はたどり着くところを失ってしまう.一方,周辺の湿地・田んぼに水があふれたら,そこにたどり着くことができるだろう.
 洪水が生態系に与える影響というと,「攪乱」が強調されることが多いが,少なくとも河川の下流域では生物の輸送・移動・漂着への効果が,とても重要なのだ.

さらに洪水とともに運ばれる泥は豊富な栄養分を含むため,氾濫原の田んぼへの施肥効果をもつという農業へのメリットもあるのではないか.このような評価って行われていないのかな.洪水で冠水した水田をみて,そう思った.


川からの洪水で冠水した水田

「堤防から洪水を一滴ももらすな」とでもいうゼロリスク目標を掲げた事業のため,これまで河川や湖沼の自然は破壊され続けてきた.「川があふれることを前提とした社会づくり」を考えるなら,氾濫原の保全や再生は両立できるはずだ.治水の議論でも,ぜひそのような視点を取り込んでいただきたいものだ.

2008年8月24日日曜日

湿原聖地

金井典美著 湿原祭祀第二版 を読了


稲作を中心に文化を発達させてきた日本では、湿原を聖地として祭り、占い、崇拝の対象としてきた。このことを多くの実例に基づいて解説した本である。いくつか大胆な推論を述べているところもあるが、高層湿原を見たときに神秘性を感じたり、ヨシ原に分け入ったときに豊饒のイメージを感じたり、という個人的な経験から、とても納得のいく内容だった。

本書では、湿原聖地の代表的なタイプとして、次の二つを取り上げている。一つはカヤツリグサ科やイネ科の植物がまばらに生える高層湿原である。東北日本では、里が旱魃の年でも湿潤を保ち、稲に似た植物が生える山頂の高層湿原は、「神の田んぼ」として信仰されてきた。豊凶の占いに用いたと考えられる古銭などが、このような湿原で多く発見されているという。山頂の湿原の地名に「田代」「苗代」と言葉が含まれていることが多いのは、そのような風習の名残らしい。(そういえば田代山の山頂にも綺麗な湿原があったなぁ。)著者は、このような「山上の神の田んぼ」の存在は、雲南省や熱帯アジアで発達した山岳地帯での稲作が日本に伝播したことを反映したものではないかと考察している。

もう一つの代表的な湿原聖地は、ヨシ原である。古事記や日本書紀に書かれているように、日本の国土は、当初は水面に浮かび漂う多くの浮島で、それらはヨシが生えることによって固定されたものという国土観が古代から存在した。この物語を想起させるような湿原、たとえば実際に浮島(floating island)をもつ湿原や、ヨシが水面の中にまとまって島のような景観を形成している場所は、聖地とされることが多かったそうだ。

ヨシ原となるような低地の湿地は、田んぼとして開墾されてきた場所であり、そこの地母神として、湿地そのものや湿地に多い動物であり水の象徴でもあるヘビ、湿地の植物が信仰の対象とされてきた。植物としては、特にスゲ類がよく信仰の対象となり、名前に「菅」を含む神社が多いのはその反映だという。著者はスゲ類が重視されている背景には、スゲが多く生育している場所は稲作に適しているなどの理由があったと考察している。

古代の人々が、稲作に適した場所を探すときに、その場所に生育していた植物種・成立していた植生を手がかりにしたと想定するのは妥当だろう。ヨシは生育適地の幅の広い植物だから、ヨシだけを手がかりにしたのでは、最適な場所を見つけるのは難しかったかもしれない。その点、日本に約250種が分布し、それぞれが微妙な環境の違いに対応して分布しているスゲ類(Carex)は、よい「指標種」となった、と考えるのはスゲ好きの私には楽しい空想だ。たとえば、千葉県北部・茨城県南部を見る限り、オニスゲは谷の水源付近に多い。このようなスゲは安定した湧水源の指標になるように思われる。

湿地を聖地とした習慣の証拠は、弥生・縄文時代まだ遡れるという。本書で特に面白く印象に残ったのは、弥生時代に盛んにつくられた銅鐸についての考察である。銅鐸は祭祀の道具と考えられているが、丘陵の谷に臨んだ水辺の傾斜地、小さな湿原のやや上方、湿生草原の辺縁部から出土することが多いという。ここで著者は、銅鐸を谷間の水田そのものを象形した祭器であるという推測を述べている。つまり、台形をした銅鐸の形は、谷の水源地から里に向かって扇形に広がる水田の形を現しているというのだ。谷津の湧水点にあたる銅鐸の上端部分に、目を象った模様があるものもあるという。この推測の妥当性は専門外の私にはわからないが、これまで特に意識しなかった「銅鐸の形」が自分のフィールドの地形を象っているのかもしれない、と思うだけで、とても楽しくなった。
 湿地のフィールドワークのお守りは、「台形の鈴」がいいかもしれない。

2008年8月21日木曜日

東北水草旅行

3日間かけて,一関市内のため池,下北・小川原湖,津軽・十三湖とその南側の湖沼群をまわってきた.

一関で「農業と一体の自然」を堪能.ため池や田の畔が,湿地の植物の重要なハビタットであることを強く実感.

小川原湖.
 八郎湖は埋め立てられ,霞ヶ浦は水質悪化・堤防建設・水位改変で徹底的に痛めつけられ,日本の「大きな海跡湖の自然」はほとんど失われてしまった.そのような中,小川原湖ではまだ本来の姿を見ることができる.小川原湖があってよかった,とつくづく思った.霞ヶ浦で本格的に自然再生を考えるとき,この湖から学ぶべきことは多いだろう.
 しかし小川原湖でも栄養塩の濃度などは上昇傾向という.水質の悪化と水草の減少は直線的な関係ではなく,負荷の閾値を越えると植物は急速にいなくなる.そうなる前に適切な管理をして,なんとかこの自然を残したいものだ.

砂土路川河口付近の,浮葉植物(アサザ)と沈水植物(セキショウモ,イバラモ,クロモ,ツツイトモなど)が混生する群落.

セキショウモがちょうど開花期.らせん状に伸びる雌花の花柄.

津軽半島には,砂丘列の間に小さな湖沼やため池がたくさんみられる.



極楽浄土ってこんな感じ?行きの電車で湿原と信仰に関する本を読んでいたせいもあって「神秘」に触れたような気持ちになった.

ほんの3日間だったが,「早朝から日没まですぐれた自然を堪能して夜は深夜まで標本作り」という「自然史の時間」を心から楽しんだ.原点に帰った感じ.

2008年8月9日土曜日

農耕起源の人類史(ベルウッド),後半

本業で読まなければならないものが多くなり中断していたが,ようやく読了した.



この本のウリは,農業の拡散経路について世界規模で網羅的にレビューされていることである.タイトルに「起源」を謳っている割に,農業そのものの発生についてはあまり深くは述べられていない.また,実際にデータを引用しながら栽培の拡散過程について述べられている作物は主に「主要穀物」であり,様々な作物や飼育動物や習慣といった文化のセットの伝播という視点が弱く,中尾佐助先生や佐々木高明先生の本の記述を思い出すと,すこし平板な印象を受けた.しかし,ここまで世界の主要な農業を網羅したことは本当に価値が高い.

このレビューを貫いているのは,農業の拡散過程では栽培技術や作物がリレーのバトンのように受け渡されて行ったのではなく,栽培技術を持った人々が作物を「携えて」拡散した,という見方である.この見方自体は特に新鮮なものではないということが巻末の訳者による解題で述べられている.確かに意外性は感じない.しかし,このレビューの価値は,直感的にも理解しやすいこの見方(仮説)を,言語の類似性や,遺伝マーカーからの系統情報を用いて検証しているところにある.緻密な検証の結果,「農業の拡散は緯度に沿った方向の方が早く進んだ」というような(これもジャレド・ダイアモンドの著作も含めてすでに指摘されてきたことであるが)グローバルなパターンを,具体的な根拠を伴って示すことに成功している.

読破はなかなか骨が折れた.(かなり重い本書を満員電車で片手で持って読んだのは結構疲れた.)しかし,とても価値のある本を読むことができた.

ついでに.
この本の主題とは異なるが,言語の変化というものにこれまで関心をもっていなかったので,世界の様々な言語の類似性,「語族」の存在などについての話題はとても面白かった.確かに言語というのはそう簡単にかわるものではなく,そのため人間の移動分散過程を復元するよいマーカーになる,というのは納得がいく.

言語の保守性を説明するため本書中で引用されていた,Marianne Mithunによるアメリカ先住民族における言語の消失についての記述が印象的だった.
「・・・言語が消滅するとき,文化のもっとも奥深い側面も同様に消えてなくなるかもしれない.経験をまとめあげて概念化したり,考えを相互に関連づけたり,ほかのひとたちと交流するための基本的な手段がうしなわれるのである・・・伝統儀礼,演説,神話,伝説,さらにはユーモアまでが失われるのである.ことなる言語を話すときには,ことなることを言い,ことなる考え方さえするということに,話者はたいてい気がついている.言語が消失するということは,先祖代々受け継いできたものから民族が完全にきりはなされるということなのである.」

2008年8月8日金曜日

浮島湿原(8月)

8月5日は霞ヶ浦(浮島湿原),6日は鬼怒川とフィールド日が続いた.鬼怒川は砂礫河原で照り返しがきつく,夢のように暑かった.野外での活動時間は短かったが,かなり体力を消耗した.酷暑の日中でも,カワラバッタもシルビアシジミもツマグロキチョウも元気に飛び回っていた.カワラバッタは足をやけどしないのだろうか.

浮島湿原に行った5日は雨で,暑くなくて助かった.8月の浮島はヌマトラノオやイヌゴマが花盛り.




しかし,通(?)にはこれである.

(コイヌノハナヒゲ)

そして,極めつけはこれだ.

(カドハリイ:絶滅危惧IA類)

遠目には「ヨシ原」だが,ヨシの被度は低く,ヨシより背の低いカモノハシ,コイヌノハナヒゲが優占する.湿生植物の種多様性がとても高い.こんなヨシ原,他にはどこにあるのだろう.浮島湿原の大きな特徴は,現在でも屋根材にするための植物の刈り取りが行われている点,そして,ここ数年は残念ながら停止しているが,冬季の火入れが行われてきた点である.このような種組成の湿地,昔はもっと他の場所にもあったのだろうか.\

2008年8月4日月曜日

手賀沼の水草保全

(昨日いったん投稿したのに操作ミスで消してしまった.下書きがあった部分だけ再投稿.)

縁のある方々と印旛沼・手賀沼の水草の保全の現場を一日かけて見て回った.

かつて水質の悪化した湖沼の象徴のようにいわれたこれらの沼では,いったん地上植生から消失した多様な沈水植物や,ガシャモクやアサザなどの絶滅危惧種を,様々な方法で埋土種子から復活させ,多くの人々が連携して系統維持する取り組みが進められている.

今回特に印象に残ったのは,手賀沼の流入河川に沈水植物を移植している事例である.手賀沼の水質は改善されつつあるが,沈水植物が生育するには厳しい.そこで,コンクリート張りになっていた小規模な流入河川(農業排水路)を植物が生育しやすいように改修し(イワユル「多自然型」),手賀沼流域産の沈水植物を移植・定着させている.改修工事の費用は我孫子市が実施し,植物の植え付けやその後の管理は市民が行っているそうだ.水辺の植生の様子などをみても,かなり丁寧に管理されているようで,その効果も大きいのだろう.ガシャモクをはじめ,保全上重要な沈水植物が良好な状態で定着していた.

このような場所が複数あれば,手賀沼の環境改善が進んだときに有効な供給源にもなる.もしそれが実現しなくても,放置したら絶滅してしまうこれらの植物が,もともと生育していた流域内で個体群を維持しているというだけで価値があることだ.

このような地道で丁寧な活動がないと,もっとずっと多くの種が,とっくに日本から絶滅していただろう.本当に頭が下がる. (8月3日)

シコタンソウ(の写真)

友人のウェブページを久しぶりに見たらシコタンソウの写真が掲載されていた.「花弁の点々の色」への撮影者の感動が伝わる魅力的な写真だ.だいぶ以前になるが仙丈ケ岳(だったかな?)で同じことに感動したのを思い出した.

生き物は「かたち」や「暮らし方」で,見る人の気持ちをゾクッとさせるようなところが必ずある.知識があれば,タネの形,葉の形,発芽の性質など,いろんなところでこの感覚を味わうことができる.「環境問題」として生物多様性保全に関心をもち,うちの研究室に来てくれた学生さんにも,ぜひこのゾクゾクッとする感じを体験してもらいたいと思う.丁寧な観察の仕方を身につけることに加えて,進化についての正しい知識をもつことが大事なのではないかと思っている.

2008年7月30日水曜日

夏の谷津田

修士2年のIさんと、北浦流域の谷津の耕作放棄地や休耕地の調査。前回の調査では密度の濃いヨシ原になっている場所を中心に見たが、今回は、植生がまばらで明るい湿地になっている場所をいくつか見た。


ミズニラ(左)はかつて田んぼの雑草、今は絶滅危惧種。ミゾカクシ(右)は田んぼの畔を飾る可愛らしい花。

谷津の奥部は耕作されていない場合が多いが、一部で、無農薬・無化学肥料の稲作をしている場所もある。除草剤を使っていない田んぼは当然ながら「雑草」が豊かだ。今日もシャジクモがたくさん生えた田んぼを見せてもらっていたら、ちょうどその田んぼを作っている方とお会いすることができ、楽しい話をいろいろ聞いた。

コナギの繁茂はイネの生長にかなり影響するとのこと。駆除にだいぶ手間をかけておられた。コナギも美味しいですけどねー、とシャリシャリ食べて見せたら、驚かれた。コナギやミズアオイは水葱(なぎ)といって、昔から食用にされてきた植物だが、ご存じなかったようだ(おそらくもっと美味しいものに恵まれていたのだろう)。なぎを食べる話は宇治拾遺物語にもでてくるが(京都・錦通りの由来の話)、おそらくもっとずっと昔、湿地の植物を利用し始めた人々は、イネと同時にこのような水生植物を食べていたのではないだろうか。
コナギやミズアオイの味や歯ごたえは生育環境によってずいぶん変化する。面白いので、見かけるとつい口に運んでしまう。有機農業のおじさんの田んぼのコナギは、水が深いせいかやわらかく、ちょっと塩味がきいて(ミネラルが豊富?)、とてもおいしかった。


シャジクモの林を泳ぐマツモムシの腹側ショット。 防水のデジカメを田んぼの中に沈めて上向きに撮影。

途中で激しい雨にも降られ蒸し暑い一日だったが、夏の谷津田を楽しんだ。夕方までいてホタルも楽しみたいところだっけど、夜仕事が・・・

2008年7月26日土曜日

茨城県博,クマ展

家族と茨城県立自然博物館に行ってきた.博物館としては「書き入れ時」のこの時期の特別展として,恐竜でも昆虫でもなく「森のアンブレラ種,熊展」をもってきたあたり,渋いなぁと思いつつ.

すばらしかったのは世界のクマの剥製標本の展示.10種くらいあったかな.とても綺麗な標本で,しかもショウウインドウ型に並んでいるのではなく,1頭ずつ独立したケースに入っているから,周り中から覗き込んで観察できる.これがよい.種類によって足の太さや長さのバランス,ツメの長さ,口の形などがずいぶん違う.主なエサの説明などをみながら,じっくり標本を眺めたのは実に楽しかった.パンダの「ランラン」の標本も.子供の頃,人ごみ越しに一瞬だけ見たランランをこんな間近でじっくり見られるなんて!

綺麗な標本を見せる,という点で,茨城県博はレベルが高いと思う.クマが食べる植物の腊葉標本もとても美しく,見入ってしまった.展示内容に注文をつけようと思えば,「アンブレラ種」というテーマの掘り下げが足らないんじゃないかとか,思いつくことはある.しかし,難しいことはともかく,綺麗で楽しい展示を通して,クマという大きくて美しい動物の存在を見た人の記憶に刻むということでは成功していると思った.

クマが新聞やテレビニュースに登場するのは,人間に危害を与えたときがほとんどだ.都市生活者にとって,「クマ」に対する認識は,遠いところにいる何やら恐ろしい存在としての認識と,可愛らしくデフォルメされたキャラクターとしての認識しかなくなって,動物としてのリアルな存在という認識が空白になってしまうのではないか.「モノではなくイキモノへの認識」とでもいうのか,自分との類似点・相違点を通して他者として認識するような捉え方ができなくなってしまうのでは,という懸念.

クマを人の命や農業を脅かす「有害鳥獣」という視点でしか見られなくなったら,それはおそろしいことだと思う.日本でのツキノワグマの個体数も十分に把握されていないし,生態系における役割もほんの一部しか分かっていないにも関わらず,「大量出没」の年だった2006年など,全国で4,200頭のツキノワグマが捕殺されている.このような捕獲は日本の個体群の存続性を脅かしかねない(→日本クマネットワーク).この現実を問題と感じることができるかどうか.

まずはかっこいいクマ標本をじっくり見て,リアルな存在としてクマを意識できるようになることは大事だと思う.「恐れる」だけでなく「畏れる」気持ちがあると,付き合い方も変わるのではないか.

ぬいぐるみの「くまちゃん」大好きの2歳の息子は,リアルなクマをどう理解したんだろう.気になるなぁ.

2008年7月24日木曜日

農耕起源の人類史(ベルウッド),前半

メーリングリストでの案内をみて早速入手した.

地球規模での農耕の起源と拡散についての研究書である.ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」「文明崩壊」が地球規模での文明一般の拡散史の解説だとすれば,その農耕版といった内容.

丁寧に事実を引用しながら解説されており,科学的な安心感がある.着実に論理を固めながら話題が展開する重厚な構成だ.しかしその分,私のような専門外の読者にとっては難解な場所や(読み物としては)退屈な表現も多い.読み始めてから約一週間たったが,まだ前半しか読み終えていない(通勤電車でしか読んでないけど).それでも,いつくか勉強になった.

○農耕民が狩猟採集民よりも人口過密になれる原因
・食料が集約的に生産できること.
・出産間隔が短くなること.(狩猟採集民は,広い場所で食料を採集している間,子供を運ばなければならいこと,周期的に脂肪摂取が低レベルになること,やわらかい理由食がないために長期間授乳する必要があることが原因)

○農耕の開始が可能になった条件
・意図的な植え付け作業と栽培の季節性の存在(野生植物から栽培植物を隔離することに寄与する条件)
・気候が温暖・湿潤で安定していること(完新世における温暖化(11,500年前に発生)が重要)

○農耕が開始された理由
諸説あるが,豊かさという背景に注目するものと,ストレスに注目するものがある.ストレスとしては,社会的なストレス(部族間の競争など),人口によるストレス(温暖化に伴い食料以外の要因による人口増加が先行しそれをまかなう必要性が発生).

○世界の農耕の起源地
・西南アジア:「肥沃な三日月地帯」(ヨルダン・シリア・トルコ・イラク・イラン)→野生穀類と豆類をともなう疎林と草原で発達した農業→ヨーロッパ,エジプトに拡大
・アフリカ:北部において西南アジアから農業が拡散,在来の牧畜民と融合,サハラの乾燥化に伴って牧畜民が農業技術を携えて南下.
・東アジア:長江の中下流域に稲作の起源.野生の雑穀やコメを栽培河岸,家畜化されたブタ,イヌ,ニワトリを飼育する形態.日本の農業はそこから拡散したものだが,中国国内での農業の伝播に比べて,受け入れに時間がかかったとされる.それは,日本は海産物,堅果類,根茎類の採取が非常にうまくいっていたため,副次的な農業はあったものの,それほど依存度は高くなかったからと解釈されている.
・東南アジア,オセアニア:(・・・複雑すぎてよくわからなかった・・・)台湾とか,いくつか重要な起源地があるらしい.
・南北アメリカ大陸:トウモロコシを除いて生産性の高い穀類がなかたこと,食用になるような動物の家畜化があまりおこらなかったことから,狩猟採集から農耕への以降が旧大陸ほど明瞭ではない.また農業の起源も複数あるらしく,複雑.

8章まで読んだ.9章は「語族は人類の先史に対してどのような意味をもつか」だって.聞いたことのない話題で,楽しみだ.

2008年7月16日水曜日

浮島湿原7月



今年は月1-2回の頻度で霞ヶ浦湖岸の浮島湿原(妙岐の鼻)に通っている。ヨシ原の地面に這いつくばって植物の実生にマーキングし、生死を追跡する。昨日は7月の調査を終えてきた。

浮島湿原は霞ヶ浦最大、関東平野でも有数の規模を誇るヨシ原で、全国・県レベルの絶滅危惧植物が20種近く生育する生物多様性のホットスポットである。またヨシ-カモノハシ群落という独特の植生が残る。屋根材としての利用のためにカモノハシやヨシの刈取りが現在でも行われており、さらに、ここ数年は停止されているものの、火入れも行われている。これらの伝統的な植生利用・管理と植物の多様性の関係を研究している。


クサレダマ。後背湿地のヨシ原の中で咲く。全国的に見れば珍しい種ではないが、関東平野で見られる場所は結構限られる。

ハンゲショウ。浮島湿原では自然堤防の後背湿地側の縁に特に多く出現する。

昆虫もいろいろ。

オオルリハムシ。シロネを特異的に食べるという、とってもきれいな甲虫。

この湿原の植物多様性のカギであると睨んでいるのが、カモノハシという植物である。昨日は開花が始まっていた。

二又に分かれる穂を鴨の嘴に見立てた和名だ。この嘴を開いてみたら、ほとんどの穂の中にアザミウマがいた。風媒花につくアザミウマって珍しいんじゃないかな。

「ヨシ原」にもいろいろなタイプがあるが「攪乱型のヨシ原」の本来のフロラがまだここには残っている、と思う。
本当に、本当に大切な場所。

2008年7月14日月曜日

田か畑か

通勤時間をつかって、関東平野の湿地と人の歴史についての読書を続けている。農業・治水・人文地理など、異なる視点から「関東平野」に関する本を読むことで、自分で生態学のフィールドとしている地域の背景を立体的に理解しようというのが狙いだ。

これまでの読書で
・主流路が不明瞭で、分流・合流を繰り返しながら低平地のヨシ原を流れる河川。頻繁な洪水とそれで作られる肥沃な土地。
・主な集落や中世の城・寺社は自然堤防や台地の縁に。
・低湿地は、排水の悪さと洪水の影響とで水田化は困難。谷津の奥部から(湿田の)耕作がはじまり、徐々に河川に近い低湿地に拡大された。
というイメージがつくられてきた。

さて、これまで農地=水田と思い込んでしまっていたが、「地文学事始 日本人はどのように国土をつくったか」を読んでそんな単純ではないことがわかった。

第九章「古河公方の転と地、あるいは乱の地文学(中村良夫)」の図5(p.220)には、古河市史からの引用として、江戸期から1980年代にかけての古河における農地の内訳の変遷が示されている。これによると、江戸期には、田が166.7町歩に対して畑は752.6町歩と約4.5倍多かった。畑>田の関係は昭和まで続き、両者の面積がほぼ同じになるのは1970年ごろ。1980年代にようやく逆転している。また、表1(p.221)には、江戸後期における谷中郷(渡良瀬遊水地に没した旧谷中村)における農地の内訳がしめされており、これによると田は105町歩に対して畑は544町歩と、約5倍である。関東の低湿地の中でも特に「水の領分」に近い村でもこのバランス。「水が多い」=「水田地帯」という思い込みはしないほうが良さそうだ。

中村氏は次のように述べている(p.221)。
「戦後の食糧不足の時は、古河のような田園に囲まれた小都市においても白米のご飯はなかなか庶民の口に入らなかった。それを実感している者として、中世においても米はとても一般の主食にはなりえなかったとする主張はもっともに聞こえる。大麦、小麦、大豆、小豆、ヒエ、アワ、ソバ、それにいくらかの根菜類と、蔬菜の畑は、荒野を切り開いていった開発領主と地侍あるいは農民たちの見慣れた農村の景観だったのではないか、と思う。」

しかし、この変化は単純に「新田開発に伴って水田が増え、雑穀から米中心に変化した」と考えてしまっては、それも誤りだと思う。図5のデータをよく見ると、畑>田から畑<田への逆転は、田の増加以上に、畑の減少によって生じている。
(古河の農地内訳)
明治初期(1880頃):畑=773.6ha、田=165.4ha
昭和45年(1970年):畑=350.1ha、田=324.2ha

台地の上や自然堤防上に広がっていた畑が、住宅地などに変化してきたということなのだろうか。このくらいの変化であれば昔と今の地形図を並べるだけでわかりそうだ。(でも今日はここまで)

2008年7月9日水曜日

洪水のにおい

自分は床下・床上浸水のような水害は経験したことがない。しかし故郷は利根川下流域の氾濫源。家がある場所はおそらく自然堤防と思われる微高地上とはいえ、洪水被害未経験なのは、堤防に守られていたからだ。

洪水の時の話は母親から何度か聞かされた。よく聞かされたのが「便所があふれるのがいやだった」ということだ。その頃のトイレは汲み取り式だし畑に肥溜めがあるから、洪水の時にはそれらから溢れて流れてくる。伝染病にもつながる、人間が本能的に忌避するニオイがしたことだろう。

河川の出水への生物の適応。生物多様性の維持における氾濫の役割。これらは私にとって本当に面白いテーマだが、こういった洪水と結びつく話題について、社会に向けて何らかの提言や情報発信をするときは、「洪水のニオイ」のことは頭の片隅にでも常に置いておきたいと思う。

今日は午前は鬼怒川の氾濫原(扇状地)の自然再生の打ち合わせ、午後は霞ヶ浦の氾濫原(湖岸植生)のモニタリングの打ち合わせをした。一息つきながら、そんなことを考えた。

2008年7月8日火曜日

ハマオモト

我が家のハマオモト(ハマユウ)が咲いた。鉢植えで室内においているから、とてもよい香りが漂ってくる。この香りで、夕方に活動するスズメガ類を呼び寄せるという。開花も夕方に始まる。


このハマオモト、妻のタネ・コレクションにあったものが「保管していたら発芽しちゃったから」育て始めたそうだ。放任主義の我が家にあってたくましく育ち、発芽から14年目にして、今夜ついに開花。

2008年7月7日月曜日

反復説再来?

河川や湖岸の水辺の湿生植物やアサザのような浮葉植物は、実生期には冠水耐性が極めて弱く、「湿っているけれども冠水しない」時期・場所で発芽する。成長とともに冠水耐性を獲得し、水草らしくなる。

先々週、マイコループさんのゼミでこの話をしたとき、参加した方から意外だと言われた。フィールドで植物をみていると当たり前になっていたが、改めて考えてみて、次のことに気づいた。

「生活史ステージによって異なるハビタットを利用する生物において、生育初期段階に利用するハビタットは、その生物の系統的祖先のハビタットである。」という傾向があるんじゃないかな。

あてはまる例
・アサザは陸上で発芽し、成長とともに地下茎で水中に入っていく。被子植物だから祖先種は陸上植物である。
・両生類の多くは幼生期を水中で過ごし、成熟すると陸に上がる。両生類の祖先(魚類)は水中の生物である。
・サケは川で生まれ、海に回遊する。サケの祖先は川の魚である。
・ウナギは海で生まれ、川に回遊する。ウナギの祖先は海の魚である。

トンボの祖先なんかはどうなんだろう。

これって「○○の法則」みたいので既にあるのだろうか。

研究室のKくんに話してみたら「個体発生は系統発生を繰り返すってやつ?」とのこと。ううん、なるほど。トンボ研究者のKくんはこの法則には懐疑的なようだった。

妻に話したら最初は感心してくれたが、ついでに「鳥の祖先は爬虫類だからヒナは陸上生活だ」と言ったら、バカじゃないの、といわれた。新法則!?を確立するにはもう少し洗練が必要そうだ。「異なるハビタットを利用する」という部分をもう少し精密にする必要があるだろう。

2008年7月4日金曜日

利根川のシジミ

子供のころ(たしか小学校に入る前から低学年ごろ)、母親や伯母と一緒によく利根川にシジミとりに行った。ドロの中から足や手で探り当てて、なるべく大粒をバケツにとる。晩の味噌汁の具にする。
ある日、シジミを取っていると漁師に怒鳴られたことがあった。どんな言葉で叱られたか覚えてはいないが、ただ、とても怖かった。
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鈴木久仁直著利根の変遷と水郷の人々 (ふるさと文庫 (123))を読んで、このころのシジミ漁の背景が少しわかった。

私が生まれた1971年は利根川の河口堰が完成した年である。その直前の1960年代には、シジミは利根川における漁獲のおよそ9割(重量比、千葉県の場合)を占めていた。いうまでもなくシジミ漁が盛んなのは汽水域である。利根川下流域は勾配がゆるく、佐原市のあたりまで汽水が入り込んでいた。佐原から銚子にかけての利根川一帯はシジミ漁が盛んな地域だった。特に私の故郷である笹川河岸付近のシジミは「笹川蜆」というブランド品だったという。

河口堰により塩水の溯上が止められると漁業に支障がでるのは間違いない。河口堰が建設された理由は以下の2つ。
-農業用水への塩害防止。特に笹川に取水口をもつ大利根用水への塩水流入の抑制は地域にとって重要な課題だった。
-新規利水の開発。ただし、この利水は地元よりも東京にとっての課題だった。実際、河口堰によって生まれた利水権の62%は東京都が持っており、千葉県は32%、茨城県は0だった。

漁業者は河口堰計画反対の意見を提出した。しかしそれが聞き入られることはなく、異例に安い補償金の支払いで決着したという。その原因を、鈴木氏は次のように分析している。
-地元は半農半漁であり、塩害防止を理由に出されると反対しにくい事情があった。
-「河口堰による被害は少ない」という学識経験者のまとめた調査報告が、漁民へ押し付けられた。
-当初は河口堰建設反対のために結成され、次第に補償交渉の対応を担った「利根川河口堰漁業対策協議会」では、千葉・茨城の利根川下流の漁民ではなく、栃木・埼玉・群馬の上流の漁民が主導権を握った。生活の漁業への依存度が高いのはシジミ・サケ・ウナギを主要な魚種とする下流の漁民であり、アユなどを主要な魚種とする上流の漁民は遊漁者的というように、そもそも漁業の位置づけに大きな違いがあり、下流漁民の実情を適切に反映した交渉にならなかった。

シジミの死滅は、河口堰が竣工した年(1971年)に早速現れ、それ以降、夏になるとシジミの大量死が繰り返された。「学識経験者」の予測をはるかに上回る被害が出た。漁民は河口堰の開放とシジミ被害の補償を要求したが、聞き入れられることはなかった。一方、漁民は種シジミの放流を繰り返した。種シジミの放流は、河口堰の下流側に養殖場を決めて行われた。それでも、短期的に漁獲が回復することはあっても、すぐに低迷した。

1975年には河口堰開放を求めるデモが行われた。私が漁師さんにどなられたのは、この頃か数年後くらいだろう。

私らがシジミを採る場所は、年々下流に移動した。笹川では採れなくなって河口堰の下流の銚子まで行くことも多かった。種シジミ撒いてた近くだったのだろう。知ってたのかな?うちの親は。

その後、1978年に千葉県・水資源開発公団・関係する漁協の間の交渉が再開された。1979年にはシジミの漁業権を全て買い取る合意がなされ、総額40億円の補償が支払われた。これで、シジミの漁業権は利根川から消失した。

2008年7月3日木曜日

母子島遊水地

何日か前に「氾濫原の水田は遊水地に」なんて書いたが、このような場所はすでにあるようだ。

アーカイブス利根川(宮村忠監修)に紹介されている「母子島(はこじま)遊水地」は、そのような場所らしい。

P.11「母子島遊水地は、洪水によって小貝川が増水したとき越流堤から増水した水を遊水地に導いて溜め込み、洪水の危険が去った時点で小貝川に戻してやることにより、下流への推量を減じて小貝川全体の安全性を高めます。遊水地内は、・・・・通常は今までどおりのうちとして利用できます。集団移転した方々など田畑の所有者に対しては「地役権補償」を行って、洪水時に水をためることを認めていただいています。」

知らなかった。農地は田んぼかな。どんな草が生えるんだろう。
稲刈り後の季節に一度行ってみよう。稲刈りから少したった田んぼでは、耕起が行われない限り、水田雑草をほぼ一通り見ることができる。

2008年7月1日火曜日

谷津葦原

耕作放棄された谷津田の植生を研究している大学院生、Iさんと調査に行った。フィールドは茨城県鹿嶋市、北浦の東側の水源域だ。

圃場整備の進行、減反、農家の高齢化等々により、もっとも初期から稲作が行われていた場所である「谷津の奥部」ではいま耕作放棄が進んでいる。耕作放棄地の拡大は農政の中で問題視され、土地の活用についての検討が行われている。しかし、特別な「活用」を考えなくても、条件によってはけっこういい湿地になっているんじゃないの?湿地が減少した現在ではむしろ貴重な場所なんじゃないの?というのがこの研究の出発点だ。

長い谷底に果てしなく広がる葦原、ここもかつては水田だった。水田耕作が始まる以前の太古もかくや、と思わせるような景観だ。


耕作という人為から解き放たれた土地は、その場所の条件や履歴によっては、様々な湿生植物から構成される湿地へと戻っていく。生態系のレジリエンスの一例である。

湿地に戻れる条件は?その植生はどんな要因で決まるのか?Iさんのおかげで、かなりのところまでわかってきた。

2008年6月28日土曜日

二重投稿

査読を引き受けていた論文について、二重投稿だったから査読しなくてよし、との連絡がエディターから入った。まだざっとしか読んでおらずほとんど査読にコストはかけていなかったから「実害」はなかったものの、研究者としての基本ルールを破られたわけで、気分が悪い。

査読を引き受けた論文が不正だったというケースはこれで二度目だ(1件目は盗作だったかな)。偶然かもしれないが二件とも中国の研究者からの投稿である。

投稿論文の査読はボランティアである。それを引き受ける動機は、つきつめれば、査読の仕組みがうまく機能しないと科学が水準を保てず、社会の中から信頼を失い、自分たちの立場も危うくなるからである。と思っている。(私の場合、一刻も早く読みたいという「至近要因」や、エディターに恩を売ったらいいことあるかなという「卑近要因」も。)研究者かどうか、ということは大学や研究所に在籍しているかということではなく、査読つきの雑誌に論文を書いているかどうかということであり、論文査読システムが維持できないと研究者という仕事は存在できない。と思う。自分も世話になるのだから(多少忙しくても)可能な限り引き受ける。

二重投稿や盗作は編集者や査読者の奉仕精神を踏みにじるものだ。実際に時間や労力を無駄に費やしてしまうことにもなる。なんとか防げないものか。

学術会議は科学者の行動規範といった声明をだして不正防止を呼びかけている。これから研究者として仕事をしようとする人が読んで、自覚するのにはとても役立つと思うが、悪い気を起こした人がこれを読んで思いとどまる、ということはないだろう。

現実的な防衛策を考える必要があるだろう。思いつくのは、ブラックリスト、投稿受付段階での類似論文の自動検索、といったところか。類似論文の検索は、ほとんどの学術情報がデジタル化されている現在ではある程度は可能だと思うが、日本語や中国語と英語の二重投稿のケースでは難しいかも。自動翻訳などの技術と組み合わせれば、ある程度まではできるのかな。私が知らないだけで、もうやっているのかな?

今後は査読を引き受けたら類似論文を丁寧に探すことにしよう。本来、査読はそうあるべきだし。

競争主義、インパクトファクター主義が強まると、二重投稿・盗作のケースが増え、その防止にも新たなコストをかける必要が出るのか。世知辛いことである。

2008年6月27日金曜日

大原幽学

利根の変遷と水郷の人々(鈴木久仁直著、崙書房、1985年)を読んでいる。
利根の変遷と水郷の人々 (ふるさと文庫 (123))
いろいろと自分の故郷についての知識が増えて楽しい。

千葉県旭市・干潟町で農業指導・農村指導を展開した大原幽学は干鰯の使用を戒めた。全国的な干鰯の産地、銚子と九十九里がすぐ隣にあるのに、である。草や堆肥を使うように指導した。干鰯を使えば生産性があがるのは明らかである。しかし施肥という農業の本質的な部分への商品経済の侵入を拒否した。干鰯を買い入れた農民は、天候不順で不作だと肥料代も払えない。不作が続くと水田を抵当に持っていかれるからである。

幽学は次第に門下生を増やし、北総の農村復興に大きな貢献をしたが、それが幕府の疑心をまねき、教場は取り壊され、本人は100日間の謹慎処分となってしまう。謹慎があけて戻ってみると、指導してきた村々が旧態にもどってしまっていた。嘆いた幽学は門人への遺書を残して自刃する。

そういえば、私が通っていた小学校の会議室(?)に大原幽学の肖像画があったっけ。なんだか幽霊みたいな名前だな、くらいにしか思っていなかった(ヒドイ・・)。偉い人だったんだねぇ。

この本で一番インパクトがあったのは利根川東遷をめぐる事実や解釈の記述だった。そのうち、メモを作ろう。

2008年6月26日木曜日

高島緑雄「関東中世水田の研究 絵図と地図にみる村落の歴史と景観」 (つづき)

先日読み始めた表記の本から、第5章「中世村落の自然的条件と土地利用:香取社領=谷地田と台地集落の一類型」を読んだ。

千葉県佐原市・小見川町(現在では合併して香取市)の地理的特性と、中世から近世の水田についての論文である。私の故郷に近い場所であるとともに、いまM2のIさんが研究している北浦周辺の土地利用との共通性もあり、興味深く読んだ。

得た知識メモ。
-下総台地の標高は東に行くほど高くなる。台地面と谷との飛行は東部ほど大きい。
→以前から旭市や銚子市の谷津は深くて長い、という印象があったが、台地との比高が影響しているのかも。

-水郷が東京近郊の早場米生産地として有名(だった?)のは、台風時による被害を避けるために極早稲種の稲を育てていたことが関連。

-現在の利根川・常陸川周辺、十六島・新島あたりの「水郷」地帯は長らく一台沼沢地であり、水田の開拓が始まったのは16世紀末ごろからである。

-谷津でも、(谷津の出口が自然堤防で塞がれている場合は特に)河川に近い谷底は悪水がたまりやすく、中世の耕作技術では水田化が困難だった。

-それに対して、谷頭部付近はため池を必要としないほど豊富に地下水が湧出するとともに、傾斜地形のために水の管理もしやすく、また何より河川の氾濫や内水氾濫のような災害が少なく、中世(あるいはそれ以前)から水田耕作が行われてきた。
p.153「水田が分布する谷底面と谷壁の交界線上に、芝地や萱地が帯状に連なっている。これは台地の地下に蓄えられた地下水が滲出する恒常的な湿潤地であり、地下水はこのような湿潤地を媒介として水田に流入する。したがって谷壁直下に用水源をもつ水田にとって、取水と配水の施設はまったく不必要であり、それは古代・中世の水田造成・維持技術、灌漑・排水技術にまさしく適合的といえるのである。」

-谷津の谷頭部付近や谷壁付近が耕作に適していたことは、検地の記録(この地位では1590年代に実施)をみてもわかる。(検地では上田、中田、下田、下々田という等級付けがされている。)

-悪水がたまりやすい谷底では、少なくとも中世には水田化されない場所がかなり点在した。これらのはおそらくヨシ原であり、そのいくつかは、耕作技術が発達した近年になっても、屋根材を供給する部落共有の萱地として残され、特殊な利用慣行が行われてきた。

2008年6月24日火曜日

印旛沼

印旛沼の植生の保全・再生のためのワークショップメンバーになっている。今日は、今年からはじめた再生事業でのモニタリング方法について、千葉県とコンサルの方との現地打ち合わせをしてきた。

印旛沼はかつては沈水植物やアサザ・ガガブタが生育する浅い沼だったが、現在では、水草はオニビシが大群落をつくるのみで、沈水植物は完全に姿を消してしまっている。この印旛沼で、沈水植物や絶滅危惧の水草をシードバンクから復活させて系統を維持すること、水生植物の再生・生育に必要な条件を解明することをを目的としたいくつかの実験が行われている。

その一環で、沼の一角を人工的に仕切り、その中だけ沼とは異なる水位変動を与える実験をしている。オランダで類似例があるものの、日本では例のない実験だ。

印旛沼の水位は、現在では、水の需要がある春~秋の時期と冬の時期のそれぞれに定められた目標水位を維持するように管理されているが、かつては早春を低水位期・秋を高水位期とする、連続的でレンジの大きな変動が存在した。この水位変動は、透明度が低い条件下でも沈水植物の生育を可能にし、ガマ類の繁茂を抑制していた可能性がある。沼全体の水位をかつてのように変動させるのは、いろいろと困難があるので、小規模な(といっても研究者が単独では不可能な大スケールの)実験でこれを検証しようとしている。80m程度の湖岸を三角形に仕切った事業地で、今年の春から水位を下げ、現在、少しずつ水位を上昇させているところだ。

広範囲にわたりシャジクモやオオトリゲモが出現。ほかにもササバモ、コウガイモなども出現。予想はしていものの、(タネも土も撒かない)沼底から沈水がジャンジャン生えてきた光景に感激した。

しっかりデータをとって公表することが重要だ。幸い、コンサル担当者が専門性・柔軟性・機動性の高い頼もしい方で、また県担当者も丁寧な方なので心強い。事業としては成功しつつある。ただし、研究としてみたときは、水位だけでなく波浪や水質などのいくつかの条件が同時に変化していること、反復がないこと、などいくつか難しさがある。これらは他の実験の結果や先行研究の知見と組み合わせて、読み解いていくことになる。このあたり、よく考えて必要なお手伝いをしたいと考えている。

2008年6月22日日曜日

高島緑雄「関東中世水田の研究 絵図と地図にみる村落の歴史と景観」

関東平野での米づくりについてもう少し深く知りたいと思い、いくつか本を入手した。私の関心は稲作そのものよりも、田んぼが氾濫原の生物のハビタットとしてどのような特徴・多様性を持つものだったのか、それが、いつどのように変化したのか、ということにあるのだけど。

今はこれを読んでいる。


専門外で基礎知識がない分野なので、誤解しているかもしれないけど、印象に残った内容をメモする。
- 谷戸・谷津の水田は、湧水源があるものの、それを貯めると大変な深田(フケタ=一年中水が引かない田)となるため稲作は容易ではなかった。
- 谷津や自然堤防周辺の水田では、苗植えではなく、摘田(ツミタ=直播)が少なくとも明治期ごろまで行われていた。
- 稲作には苦労を伴う谷津田だが、もっとも原始的で安定した水田でもあった。

谷津田(特に谷の奥の湧水点付近)と、河川周辺の平田では、米の生産方法にもだいぶ違いがあったようだ。土地の来歴に加えて管理の違いも水田の生物に影響していたに違いない。

谷津田と平田の管理の実際についてもう少し詳しく知りたい。中世以降の水田雑草や害虫についての文献はないのだろうか。どなたかご存知でしたら教えてください。

2008年6月20日金曜日

氾濫原の水田は遊水地に

「利根川東遷の立役者となった関東流の治水思想は、洪水を肩すかしさせるやり方である。美田の増加を念頭に置きながらも、自然の流れにあまりさからわず、霞堤や越流堤によって、川沿いの沼地や湿地に洪水を遊水させながら水路と水田を開き、生産性の高い下流に、河水があふれないように工夫するのである」(中村良夫「湿地転生の記 風景学の挑戦」)

折りしもこの本を読み終えたその日の新聞記事に「水害にスーパー堤防整備 温暖化対策、初の報告書」とあった。

ますます大型化する台風、上昇する海水面。高まる氾濫のリスクに対して「力には力で」というのがこの(現代の)方針である。しかしスーパー堤防を増やすことには途方もない資金がかかるだろうし、大規模な自然破壊が必要になるだろう。氾濫原に「丘」をつくるようなものなのだから。

対して、いわば河川周辺の水田(=一種の湿地)を洪水時の遊水地として使う「肩すかし」方式は、その年は米の生産が落ちるとしても、氾濫で運ばれてくる栄養塩を含んだ土砂が供給され、施肥量も少なくてすむなどのメリットもあるんじゃないないなかぁ。生産の減少を補償したとしても、「スーパー堤防」より安いのでは?水田や水路などの場が、氾濫原の生物のハビタットとなるのは間違いないだろう。

こういう「しなやかな対策」は検討されているのだろうか。

2008年6月19日木曜日

中村良夫「湿地転生の記-風景学の挑戦」

古河公方のゆかりの「御所沼」。近代化の中で埋め立てられ、地域から忘れられてしまった沼を公園として再生させた取り組みの話題を中心に、「風景の再生」について述べた本である。



前半(1~3章)は、関東平野の氾濫原と「谷戸」の原風景、その変化について述べられている。この描写が圧巻で、沼に引き込まれるみたいに一息に読んだ。

「古河はまた水の町でもある。
平べったい野辺のいたるところに小川が流れている。その毛細血管のように細い、込み入った流れが、ときに沼へとけ込むかとみれば、また流れ出て、たがいに交じり合いながら、おしなべて渡良瀬川に落ち込んでいく。」

古鬼怒湾と古東京湾の時代から始まる地史の詳細な解説から、古事記の引用も交えて、関東平野の原風景がわかりやすく述べられている。その文章の美しいこと!

「水あって河道なく、川あって幹流なし。後の世に利根川、渡良瀬川と呼ばれる八百八筋の彼方に、火山の噴煙がいく筋もたなびいていた。古墳時代の人々を、大地の縁に立って、はるかなる蒼茫の地をどんな気持ちで眺めただろう。それは、容易に近づけぬ聖地ではなかったろうか。この時期の関東人にとって、中原の大湿地もまた大山高岳と同じ遥拝の地であったように思えてならない。」

怖ろしくも慕わしい川や湿地、というイメージが本当に見事に表現されている。写実だけの表現では伝わらない、自然を前にして感じる畏怖とか、歴史を知ったときに感じる重みとかいった感情が見事に伝わる文章と構成。

「狂った水圧を押しとどめようと、うち震える土手。その上に立つわたしの顔に、泥流のしぶきが飛び散る。それが下流に走るかとみれば、また上流に向かって逆巻く。-膨らんだ利根川の水に、押し戻されてくるんだ・・・。」

もう降参。一文も隙がない感じ。

後半では、公園として沼を再生させた取り組みが解説されている。その精神は「自然再生事業」と通じるものがある。

「物静かで、そしてうつろいやすい里山。その自然には人間の刻印が打たれ、そこに棲む人間には自然の影が映っている。里山に混じって暮らす人は、その山野の姿に自分の命を重ねるだろう。人々がこの風土的様式の崩壊におののくのは、自分のアイデンティティがそこにかかっているからに違いない。」

機会をつくって御所沼を再生した公園(古河総合公園)に行ってみようと思った。ただ、この本で感動したからといって、公園に過剰な期待はしていない。それはこの本が誇大広告という意味ではない。今のわたしはきっと、水ぎわに顔を近づけて珍しい植物をさがして評価してしまい、ここの「売り」であるはずの施設のたたずまいや「名所」としての要素を、楽しむことができないだろいう、ということである。

とにかく面白かったー。また読み返すに違いない一冊。氾濫原の自然とヒトの生活に興味のある人はぜひ読むべし。

2008年6月12日木曜日

スタート

本を読んだり講演を聴いたりして感じたこと、思いついたこと、好きな音楽、その他日々の雑感を気が向いたときに書きます。誰かが読むかもしれない、と思うと作文の練習になるかと思って。